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今夜の番組チェック

column

以前talksのコーナーで発表していた日記形式のコラム

2004


2004.07.29

先日静岡に行った時の事。

いつも前を通る度休みのラーメン屋が開いていたので入ってみた。
この店はつけ麺がポピュラーになる前から、のれんにその名を掲げてあったので、ずっと気になっていたのだ。
早速店に入る。オヤジが一人でやっているようだ。
勿論つけ麺を注文する。
しかしオヤジは反応しない。むむ、ガンコオヤジか?
セルフサービスになっている水を飲みしばし待つ。
するとオヤジ。
「なんにしましょう」
ズルッ、なんだ、聴こえてなかったんかい!結構大きな声で言ったのに。
仕方ないのでもう一度つけ麺と伝える。
にこにこしながらはいはい、とオヤジ。
ちょっと拍子抜け。
厨房は格好よく言えばオープンキッチンなので、オヤジの仕事が嫌でも見える。
オヤジは麺をお湯に投げ込み、中華鍋で野菜を炒めている。へえ、つけ麺に炒めた野菜を入れるのか、珍しいな。そうしている間に麺が茹であがったようだ。

するとオヤジはなんとその麺を鍋で炒め始めたではないか。
凄ーく嫌な予感。
メニューをみるとそいつがある。
「焼そば」

店内にはあと二人客が居たのだが、彼等は既に注文した物を食べているので、オヤジが作っている物は僕の注文に違いない。いや、もしかして自分の食事?客を差し置いて!いやそれはないだろう、するとオヤジはやはり間違えているの?ありえるけど・・・だって耳が遠そうなんだもん。

注文した物ができる前に一度確認をとろうかどうか考えているうちにどうやら出来てしまったよう。
「はい、つけ麺おまちどう」
え?
・・・・そうなんです、ここのつけ麺、凄く変わっていたんです。

麺はもやしとニラと一緒に炒めてあり、そしてつけダレはピーマンやひき肉を炒めたものが入った味噌味。
一瞬、つけ麺お待ちどうとは言われたものの、塩焼そばとスープが出てきたのかと、オヤジのアタマを疑いました。

恐る恐る食べてみると、なんか汁の少ない味噌ラーメンみたい。

麺も油で炒めてあるので、香ばしいんだけど少し油っぽい気も。

これはアリなのか?ナシなのか?釈然としないまま食べ終わる。

会計を済ませ店を出る。

因みに、僕以外の二人の客は普通のラーメンを食べていた。

それが答えか?


2004.05.05



ノンウォッシュのジーンズというのは縮むので洗うまで丈はつめませんよね。
そうなると歩き難いので必然的に折り返して履く事になります。
先日、僕もそうやってジーンズを履いていたところ、ある時より、なんかジーンズが臭くなったんです。
初めはノンウォッシュのジーンズは染料の匂いが強いのでそのせいだと思っていました。雨の日に履いて外出もしたので、濡れて匂いがより出てきたのかと思っていました。
が、その後、何度か履いたそのジーンズを洗おうとその折り返していた部分を元に戻したところ、そこから落ち葉の様なものが無数に出てきました。
匂いを嗅ぐと物凄く臭い。

匂いの原因はこいつだったのです。
それにしてもこの落ち葉の様なものは一体なんなのだろう。
こんなものが入り込むようなシチュエーション、例えば山道を歩いたりという事はここのところなかったはずなのに。

僕はその落ち葉の様なものをを手にとり、匂いを嗅ぎハッとしました。


こ、これは、きゅうりのぬか漬けだ!


そういえば数日前の事、冷蔵庫で軽く冷やしておいた胡瓜のぬか漬け(漬け過ぎたため薄くスライスして水にさらしてあったもの)の入った皿を、冷蔵庫のドアを開けたショックで床に落として割ってしまった事を思い出しました。
そう、そのときに履いていたジーンズの折り返し部分に偶然にも胡瓜のぬか漬けが落ちたのです。

そうとも知らず、僕は数日間そのジーンズを履いていました。コンビニに行く時も駅にスポーツ新聞買いに行く時も、いつも胡瓜のぬか漬けと一緒だったこの数日間。

数えてみると胡瓜のぬか漬けは右の折り返しに5枚、左に2枚でした。
よくも七枚も入ったものです。

奇蹟です。


でもこんな奇蹟いらないなあ。


2003


2003.12.16

先日、所用から帰宅したところ仕事場件自室が柑橘系の香りに包まれていた。
僕は柑橘系の匂いの意味するところを考え、悪い予感にかられて体を動かす。
香りの原因は数日前に購入したアフターシェイブローション(ヒゲそり後に付ける化粧水)であった。
それが口を空けたまま布団の上に横になっていたのである。
購入して間もないアフターシェイブローションであるからして満量に近く、横になれば流出するのは当然である。

布団はヒゲを剃らぬから、布団にアフターシェイブは全く意味のないことである。
ああ、なんて事であろうか。
小市民な僕が値段の面から吟味に吟味を重ね購入したアフターシェイブだというのに。
それだけではない。布団が負ったダメージもある。
ああ、なんて事であろうか。
今さら、何故アフターシェイブが布団の上にしかも蓋が空いたまま、確かに机の上に蓋をして置いてあったはず、もしやペットの毛むくじゃらが・・・などと考えていても誰も拾ってはくれず、溢れたままなので、とりあえずアフターシェイブローションの瓶を拾う。

さいわいまだ陽があるので、布団を干す。
夕方には乾き、また無色透明だったせいかシミにもならず一安心。

ただ、柑橘系だけは自己主張を止めていない。

ああ、なんて事であろうか。
もし毛むくじゃらのせいだとしたら、その毛を剃って残ったローションを塗ってやろうか。
猫への猜疑心が自分の中で高まり、イライラ感が募ってくる。

そういえば、柑橘系の香りは嗅ぐだけでストレスの解消になるらしい。


大きく深呼吸。


2003.07.04


先月、思いきって中学生以来頭を坊主にしてみた。
しかし知り合いには非常に評判が宜しくない。
歳相応になるかと思い延ばしたヒゲがまた不評。
髪の毛は生えるまで待つしかないので、とりあえずヒゲを剃る。

評判は悪かったが久々の坊主は時期的な事もあり至極快適である。
整髪剤は不要、ドライヤ-も不要、シャンプ-は少量、洗い流す為の湯も少量、バスタオルではなくタオルで事足りる。
そう、坊主はエコロジーなのである。

電気不足が懸念されるこの夏、乗り切るには「男は全員坊主」しかないような気がしてきた。


2003.05.13

替えのパンツを持ってきたはずなのに、風呂から上がるとパンツがないことが一年に3度ある。

タンスから持ってきた事は間違いない筈なのに洗面所をどう探してもでてこない。
風呂上がりの体が冷えてしまうという焦りも手伝い、そんな時は、自分でもどうしようもなくやりきれなく、泣きたい気分になる。
意外に弱い自分の一面をパンツに気付かされる時である。

仕方がないので、このような時には、バスタオルを腰に巻き、タンスから風呂場までの道のりを推理しながらもう一度歩いてみる。マンガの探偵物の様に、頻繁に殺人事件など起こらぬ僕の生活では、推理する事などこのパンツを探す時位のものである。

で、パンツはどういうところから見つかるかというと、ソファの上にあったり、台所の食卓の椅子の背もたれにかかっていたり。

大抵は、タンスのある部屋から風呂場に辿り着く前に、家の者に物を訊ねられたり、または自身がちょっとした所用を思い出したりして、パンツから意識が他へ移ってしまった時に、無意識に置いてしまうのがその原因である。







替えのパンツを持ってきたはずなのに風呂から上がるとパンツがないことが一年に3度ある。

今日はそのうちの一日だった。


2003.05.12

町内会などで出されるお茶受けのお菓子の話。

僕らの子供の頃、町内会の会合などで出されるお菓子というのはなにか一種独特の雰囲気があった。
華がないというか、影のあるというか、とにかくそんなイメージである。
グラニュー糖のまぶされた栗の形のカステラ、芋けんぴ、オブラートに包まれたゼリー、パステル色の砂糖がコーティングされた動物クッキー、さきいか、小魚ナッツなどである。

人間に例えるならば、過去に何かいろいろあった、という感じ。
言葉でいえば、いぶし銀。
国でいえば、アメリカというより日本という感じ。
製造元もメジャーな菓子メーカーではなく、今まで聞いた事のない様なものばかりだったように思う。

考えてみると、それらはどちらかといえば、お菓子というよりも駄菓子に近い気もする。
駄菓子には、果たしてそれが菓子とよべるものなのかどうなのか、といったものも多い。酢昆布、麩菓子、酢もも、酢いか等。
少なくとも、さきいかや小魚ナッツはこれらの流れをくんでいると言えそうである。
ああ、そうか。
駄菓子というのは値段が安いが、町内会の会合などで出されるお菓子も大袋に入って売っており、安いものが多い。
大人数が集まる集会、会議において、安い事は非常に重要なファクターだ。
安い値段で量が買える。
そういう基準で選ぼうとすると、自然と町内会などで出されるお茶受けのお菓子は、あのような顔ぶれになったのであろう。

僕が子供の頃、母親は町内会から帰ってくると、それらのお茶受けをちり紙に包んで持ってきてくれたりしたのだが、ガキながらも、そのお菓子が発する「地味オーラ」と、ちり紙の貧乏臭さに、路地裏の哀愁にも似たもの悲しさを感じ、善くも悪くも感受性を刺激されたものであるが、今の町内会のお菓子はやはりこういったものが出されているのだろうか。

-などとふと思った、独身で町内会などには縁のない男の独り言。



2003.03.19

あ-も-だめだ。何がなんだかわかりャあしねえ-や。
い-ですか?例えばマグロ、マグロ、マグロ、マグロ、マグロって10回言って御覧なさい。そもそもマグロってなんなんだろう、なんて気分になってくるでしょう?
それと同じ事なんです。マンガのネタも。
あ-でもないこ-でもないと考えているうちに、そもそもこの話って面白いのか?なんて気分になり、アタマが酔ったように痺れてきて何がなんだか判らなくなってくるのです。

それならいっその事、本当に酔ってしまえば?、でしょう?そ-思うでしょう?ええ、ええ、そうしましたとも。

仕事部屋の椅子からすっくと立ち上がり、家で呑んでも気分が変わらねエ、行くなら外よと鼻息荒く。
夜の9時、外は雨、なじみの飲み屋まで電車でGO!
そんな、マイナスなふぁくたあなんか今の俺には通用しないぜ、ネタ出しから逃げる足取りたるや、ひょいヒョイのヒョおい。
で、のれん前。
ガラガラガラで「イラッシャイ」
店内にこだまする店員の声。
何故こだまするのかというとお、
それわあ、


客が一人もいなくてガヤガヤしていないからでしたー!
ワーイ、パフパフパフ、ドンドンドン。

雨だしねえ、さっきまで団体さんがいたんだけどねえ、不景気だしねえ。と居酒屋の女将

なんだなんだ、しみったれてやがるぜ、ん、そういや店内に有線くらいあるであろう?コ、ワ、レ、テ、ル?
呼べ業者を!!ホントにどいつもこいつも何もかもしみったれてやがって。

何故か異常にテンションが、高くなってしまって酒も効く効く。
何故そんなにテンションが高いのかって?一人で来るこたぁめったにね-ってのに、こんな調子じゃあテンション上げにャ酔えね-だろが。え、誰に怒ってンの?アタマが痺れてきてなんだかわかんね-や。
お客さん料理の方は何か追加しますか?

ん?ああ、マグロ、マグロ、マグロ、マグロ、マグロ、マグロ、マグロ・・・・
マグロって一体なんだろう。

何だか今日の文は意味がわかんねえや?
あったりメーでィ、まだ酔ってるからね。

明日からがんばります。


2003.03.13

ここのところは特に生活の変化はなく、心に波の立つ様な出来事がない。
それでもと考えてみたところ、せいぜいヨーグルトを掬う為のオタマに付いた水分を飛ばすのに(家では健康の為にヨーグルトを培養しているのだが、雑菌が大敵な為、使用するオタマも熱湯消毒をして使う為に濡れてしまう)ぶんぶんと振ったところ柄が抜けて棚に積み重ねてあった鍋に直撃し、その騒々しさに若干顔ををしかめ、またオタマの不甲斐なさに憤りを感じたくらいで、そんな出来事をわざわざ活字にする事もあるまい。だから今日のところはここで了する。


2003.03.11

仕事場兼寝室の部屋が散らかってきた。
締め切りは過ぎたが、自主的に色々と進めている事もあり、そうなると区切りが付くまでは、かえって片付けると能率が下がるので、掃除はまだ先。
時々飼い猫が、僕の部屋を訪れるのだが、バランス感覚の優れた彼でさえ歩くのに慎重な様子。

猫に詫びる毎日。



2003.03.03

折角の自由業、ふと、髪の毛の色でも替えようかと思いつく。
薬局へ行き、シルバーグレイのブリーチ剤を購入する。
イメージはバンパイア。

しかしながら、
いざ染めてみると僕の髪は赤茶色。

なんじゃこりゃ、広告に偽りありか、ジャロか?ジャロへ駆け込むべきか?

改めてブリーチ剤の箱を見るとそこにはカラーサンプルが。
どうやら個人の元の髪の色によって染まり方に違いが出るらしいのだが、それにしてもその傾向の違いに唖然。

シルバーグレイが赤茶だもの。
これじゃあ十字架もニンニクも恐くないよ。
昼にペペロンチーノだよ。

ガックリと肩を落とす自分を自ら励まそうと歌を唱う。
「トゥモロートゥモロー明日〜がある〜明日〜があるさ〜」

と、唱う男の頭の色、アニー。


2003.03.01

先日醤油注しが壊れたので、新しい物を買い求める事にした。
以前の物は、容量が小さく故に頻繁に詰め替えをしなくてはならなず、その事を苦々しく思っていたので、今回は少し大きめの物を購入しようと思っていたところ、買い求めにいった先でお誂え向きの物を発見、購入と相成った。

「ソース差し」と書かれていたこの逸品、ポリエチレン製のチープな作りの物で、一昔前の定食屋に置いてある様な、容器を押す事により中の空気圧を上げてソースを出すタイプのものである。ソース差しと書かれてはいるが、まあ醤油差しもソース差しも代わりはあるまい。ソース差しに醤油を入れたところで警察が動き出す事はあるまい。

という事で、家に帰り、この「醤油注し」を洗い、醤油を注いでみたところ、軽く300ミリリットル程入り非常に満足。
醤油垂れしないかも確かめる必要があるので、早速、新香を用意して醤油をかけてみた。

ところが
この醤油差し、醤油の出る勢いといったら半端ではなかったのである。
まるで水鉄砲である。
僕は想像していたものとはあまりに違うその勢いに、新香を通り越し、テーブルの端まで褐色の線が走るのをただ見守るより他はなかったのである。
思わず「さすが、火の七日間で世界を焼き尽くしただけの事はある」と呟くところだった。
醤油垂れを確かめるどうのこうのの問題ではない。

そう、この醤油、いやソース差し、ソースの粘性に合わせて容器の構造を考えてあったのである。

「まあ、醤油差しもソース差しも代わりはあるまい。」

いやいや、やはりソース差しと唱うだけの事はある。


2003.01.18

日頃より、電気炊飯器は、米の持つポテンシャルを最大限に発揮出来てはいないと感じていた僕は、この度、飯炊き用の土鍋を購入する事にした。
電気よりも強いガスの火力、それと土鍋が発する遠赤外線を利用しようという魂胆である。
この方法は料亭や釜飯屋では実行されている事であり、成功は約束されている様なものである。

飯炊き土鍋を探しに出かける。
色々と観て回ったが、なかなか気に入ったものが見つからない。
今日の処は諦めてまた日を改めて探そうと思い、最後にと某店に入ったその時である。


奴はそこにいた。

他にならべられている土鍋とは明らかに違うその存在感。
まるで猫の中に一匹ライオンが紛れ込んだようである。
漆黒のボディ。その表面には花柄やひらめの絵等は存在しない。

これが飯炊きの土鍋なのか。
五合は炊けそうな大きさである。
持ってみる。
ずしりと重い。
とにかく重い。この大きさでこの重さってちょっとおかしいのではないか。
鍋の蓋を持ってみる。
蓋だけでもかなりの重さである。足の爪の上に落としたらどうなるかは言うまでもあるまい。

そして鍋の中を観て驚いた。
外見は5合は炊けそうなのに、鍋の中を見ると炊けるのはせいぜい3合が限界である。
そう、外見と中身のこのギャップ、2合の差は全て鍋の厚みなのである。
2センチはあるだろうか。
核戦争が起きた時、恐らくこの鍋の中の飯は被爆しないのではないかと思う。

普段使うには明らかにオーバークォリティー。
こいつは飯を旨く炊く為だけに産まれてきたモンスターだ。
僕は迷わずこの土鍋を購入した。

なんとこの土鍋、沸騰してから3分で火を止めればよいのだそうだ
後は余熱で炊きあがるのである。
そう、あの核シェルター並みの鍋の厚さがそれを可能にしているのである。
一体このモンスターは僕にどんな飯を食わせてくれるのか。


家に帰り、早速飯を炊き試食する。
甘いいい香り。米が心無しか透き通っている。
箸で掬い米を口に運ぶ。

もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ、 ごくん。



普通。


2003.01.01

2003年の初めだと言うのにパンツのはなし。

パンツの替え時は何時なのか。

パンツ-それは陰部を清潔に保ち保護するという重要な役割をになう下着である。
僕の性別上、これから先は男物のパンツの話になるのだが、男物のパンツと言うのは主に2つのタイプに分けられる。
ブリーフとトランクスである。
この両者、機能的には、陰部を清潔に保ち保護するという点で変わらない。
変わるのは主に「フィット感」である。

ブリーフはいかに体にフィットさせて着用感をよくするかというテーマのもとにその構造が考えられており、トランクスの方は、いかに体にフィットさせないで着用を意識させないか、というテーマのもとにその構造が考えられているのである。

パンツは陰部を守るために、重力に逆らい自身を陰部の位置で固定し、その状態を維持しなくてはならない。
この問題に両者は、ゴムを導入してクリアーしているのだが、開放感を追求するトランクスは、重力への対処はこの部分だけである。しかしブリーフの方はその思想上の結果論として、ゴム+伸縮率のある生地で重力に対処することになっているのである。
つまり、トランクスが線のフィット感に対し、ブリーフは面のフィット感である。

因みに僕はトランクスにお世話になっている。

で、パンツの替え時は何時なのか。

パンツと言うのは大抵生地よりもゴムの部分のほうが寿命が短い。
つまり、パンツの替え時は、ゴムに寿命が来た時ということになる。

これは僕の愛用するトランクスでは致命的である。
線のフィット感であるトランクスの線が断たれればそれはもう下半身丸出しである。

ただそうなってしまえば明らかにパンツ替え時と解るのだが、現実は厄介である。
パンツのゴムの老化は、ある日突然やってくるのではなく徐々に進行していくからである。

ゴムの影響力が弱まり、パンツが緩いなと思ってからどのタイミングで捨てる決断を下すのか。

文字にすれば、「パンツの陰部を保護するというメリットより、ゴムの老化により補助の為に労力を使わねばならない(下がってきたパンツを定位置に戻す手の作業)というデメリットが上回った時」となるのだが、優柔不断な僕はなかなか決断できず、洗ってしまったからもう一度履いてから、洗濯機に入れてしまったからもう一度履いてから、を繰り返して捨て時を逸してしまうという事が多々あるのである。

2003年こそはびしっとパンツを捨てられる男になろう。

-新年の抱負かよ!


2002


2002.11.24

人間ウオッチング。

スーパーで見かけたおじさん。
カゴに大量の缶ビールと缶酎杯。

それを観た僕。
「成る程、おじさん今日は、呑む気だな。」

現在の時刻は午後5時30分。
おじさんは作業着でタオルを鉢巻きの様に頭に巻いている。
仕事帰りにスーパーに寄ったという処だろう。
自分で買い物をするあたり、出稼ぎの一人暮らしか?
まあいい、

さて、酒は選んだ、つまみは何にする?

おっと、脇目もふらず鮮魚売り場へ直行だ。
高価な中トロのマグロの刺身を躊躇なくカゴに放り込んだ。
この迷いのなさ、鮮魚売り場への確かな足取り、今日のメインはマグロと「はな」から決めていたな。

次に枝豆に手をかけたがやめたぞ、バターピーを選んだ!?
枝豆のさやは、ゴミを捨てるサイクルが遅い(なかなかゴミが溜まらないため)独り者には、なかなか厄介な生ゴミになる。
もしその辺を考慮してゴミのでないバターピーに変更したのなら、やはりこのおじさん、一人暮らしの線が濃いな。

兎も角これで先鋒バターピー、大将マグロと、だいたいの流れの様なものが見えてきたな。
俺にも分かりやすい展開になってきたぞ。

となると、後二三品欲しいところだが・・・・

バターピー

(?)

(?)

マグロ

おっと、おじさん、今度は惣菜コーナーで野菜炒めに色目を使い始めたぞ。
悪くない、
栄養バランスを考えた場合、野菜炒めの加入は歓迎すべき好材料だ。
ん!やめたぞ!そして、あ、五目あんかけ焼そばを手にした!!
成る程!上に乗っている具は野菜炒めと変わりない、麺を導入する事により、「呑み」の後の「締め」を作ろうという魂胆か。

バターピー

(?)

(?)

マグロ

五目あんかけ焼そば

悪くない、悪くない選択だ!

それにしても気になるのは酒の量・・・大量の缶ビールと缶酎杯・・・一日で呑むにはかなり多い量だ・・・


ん?
「おしゃぶりするめ」をカゴに入れた!?

持ちのいい「おしゃぶりするめ」・・・酒の量・・・
そうか、おじさんも最初から長期戦は自覚していた訳だ。持ちのいいおしゃぶりスルメはその為の戦力・・・
このおじさん、できるな。

とすると、先鋒バターピー、おしゃぶりするめを従えてメインにマグロ、締めに五目あんかけ焼そば、という事か。

(バターピー)(おしゃぶりするめ)

マグロ

五目あんかけ焼そば

中継ぎが欲しいところだが、
おじさんは竹輪にしようか迷っている様だな。
メインにマグロを持ってきている処に、魚の練り物の竹輪。味や触感の方向性は大きく違ってはいるが同じ系統という部分に引っ掛かる部分があるのだろう。無理はない。
もし俺だったらここは惣菜コーナーの肉じゃが辺りで無難にまとめるが。

ん?チーちく!?
乳製品の血を導入!?
系統が同じでもその方向性の違いをよりはっきりさせようという選択か、悪くない。
やはり竹輪のテイストを残しておきたいようだ-あっ-やめた!

やはり竹輪か!!

初志貫徹!!

理屈ではない、食べたいものを食べる。

なんと囲詐欺のよいつまみの選び方よ!

戦略も必要だがいざと言う時は自分の感性を信じる辺り、世が世ならきっと素晴らしい武将に-うるさいよ!!-・・・・・。




・・・・・・おじさんに僕の声が聴こえていたら、きっとそう言われたでしょうね。


2002.11.11

ここのネタを考えている暇がないので過去評判の良かったコラムをまた載せます。

2000.11.18

川崎の仕事場の台所の開き戸の奥には、買ったものの二度程しか使用していない食器(プレート)が潜んでいる。

一目惚れだった。

アメリカ雑貨のショップにてこれを発見、これは目にも鮮やかなオレンジ色で、材質はポリプロピレンかなにか、とにかくケミカルなもので、学校給食のお盆程の大きさがあり、大小様々な凹みがついている。

英語を駆使する彼等は、トースト、スクランブルエッグ、カリカリベーコン、チーズの切れ端等をその大きさにあった凹みに器用に配置し、食事するに違いない。

これはよい、洗い物が一度に済むではないか、さすが合理性を追求する国の産物よ。

一目惚れに合理性が加わり、買う体勢はかなり整ったが、しかしこのプレートをレジで清算するのには何か恥ずかしさがあり抵抗がある。
それは素材のチープさとその色合いにあるものと思い当たり、この部分で自分なりの価値観を見い出さねばレジでの清算中、精神的苦痛を伴う事が予想される。

見切り発車で、プレートを持ちレジへと向かう。
このプレートのチープさと色合いの価値観とは一体・・・・。レジまではあと10メートルもない。必死に考えを巡らせる僕。焦りが募る。
レジまであと5メートル、
4
3
2
その時だった。追い詰められた僕は、ついにこのプレートのチープさとオレンジの色合いに「ウォーホールにおけるポップアートとの共通性」を見い出す事に成功したのだった。

あと1メートルのところで危機を回避した僕、コードナンバー007。

レジを打つ店員に、無意味な自信を持って接し、店をあとにした僕、プレートプライス700円。

-そして、僕はこの時より、ポップでアメリカンなフードライフが始まるものと信じて疑わなかった-

しかしそれから二度程しか使用していないという事から、僕の食生活がポップでアメリカンとはなりえなかった事がお分かりだろう。

結婚してから気付く相手の欠点。

・大きすぎて荒い桶にも入らず、洗浄の後、乾燥させるにも置き場所に苦労する。

・食べ残しがある場合のラップも全体にかけねばならぬ、かといって食べ残しを別の皿に移せば、結局洗い物が増える事になり合理的でもなんでもない。

・その材質故、ステーキ肉等を載せ、ナイフでぎこりとやると傷になってしまう。ステーキはアメリカの象徴ではないのか?それが乗せられぬとは一体どういうことなのか。

・そもそもここは日本であり、他の景観と釣り合いがとれる訳がない。つまり、ちゃぶ台の上にこのプレートを置いてもちっともアメリカンではないのだ。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。

ということで、今ではその色合いが目にしみる程目障りで、存在が邪魔なプレートは、仕事場の台所の開き戸の奥に潜む羽目となったのである。

正月が近くなり、少しずつ掃除を始めた僕。
久しぶりに僕はその存在を目にした。

何気なく裏を見る。

MADE IN TAIWAN


2002.09.17

自室にて、自身の都合のよい様に必要な物を手に届く位置に配置し生活をしていた処、家人に部屋を掃除したらどうかと意見された。
成る程、視点を変えればそういう見方もできるものか、と妙な感心をしていたところ今度は、ボーッとしていないで、部屋の秩序を直ぐに取り戻せとまた意見。
成る程、感心した顔も見方によってはボーッとした顔に見えるものなのかと、これ又妙な感心をしたのだが、そうなると、今しているこの感心顔にもケチを付けられかねないので、とりあえず反論を試みた。

「掃除」という言葉から察するにあなたはこの部屋が散らかっているという認識の元意見している様ですが、それは間違いというものです。無秩序な散乱は「散らかっている」といいますが、僕の部屋のそれには秩序があり、あくまで合理的に配置してあるという事に他ならず、これはある意味アメリカナイズされた僕らの世代の考え方であり、あなたの世代には理解できない発想かもしれません。

完璧な反論である。
正当な意見である。
素晴らしい。
グレイト。

しかし家人は、あんたは一体何を言っているのか、とあっさり一言で片付ける。

と同時に、バリバリという音。
家人が僕の部屋に入室したその際、絶妙な位置に配置してあったプラスティック製のファイルを足で粉砕した音である。
粉砕されたファイルは僕の所有物である。
当然、粉砕した当人からは謝罪の言葉が述べられるものと思い、謝罪に対する対応を思案しつつ家人の発言を待っていたところ、ほら見た事か、散らかしてあるからこういう結果を招く事になるのだ、とある意味全く逆の反応、対応、発言。まさか僕のせいだと責められるとは思ってもいなかったために、面食らう。

先程の経験を踏まえて応用を利かせて考えてみると、確かに視点を変えればそう言えなくもない。
しかしそうだとしても、僕が加害者であり被害者ならば自業自得が成立するものの、加害者は家人のため、どうも納得が出来ない。

とにかく早く掃除しなさいよと捨て台詞を吐いて部屋を去る家人。

散らばったファイルの破片。
掃除をさせたいという家人の立場からすれば、結果的にファイルを粉砕した事は非常に効果的だったなと妙な感心をしつつ、飛び散ったファイルの欠片を片付けはじめる、術中にはまった男。


2002.09.13

最近、僕は丑三つ時に恐怖していた。

原因は、家に生息する肉食獣の来襲である。
夜行性のこの獣は世間一般では猫と呼ばれているが、彼は家の中で唯一この時間に行動している僕を獲物と定め、毎夜、僕がトイレの為に部屋から出てくるところを狙い、闇にまぎれて行動を起こすのである。

猫を飼っている方は、それは戯れているのでは、と推測為さる方もおられるかもしれないが、容赦のない顎力と、人間の急所であるアキレス腱を狙ってくる事から彼が僕を「倒し」にかかっているのは明白である。


理由は解らない。
闇夜が本能を呼び覚ますのか、何かに操られているのか、彼に昼間の愛眼動物としての顔はない。

猫とはいえ殺意がある以上、僕が安全である保証はない。
となれば身を守るなんらかの方法を考えなくては。
僕は直ちに文献を調べ、パソコンを起動させ、参考に成る記述を探し、対策にあたった。


そうしているうちに、僕は以前、誰かに聴いたある情報を思い出した。
それは「緑亀」捕獲に関するものである。

緑亀はペットとしてポピュラーである。
養殖される以前は、生息地のアマゾン川で潜って捕獲していたそうだが、その際問題になるのはピラニアだそう。
集団で牛一頭を数秒で食べ尽くすというその猛魚に襲われぬ様、ダイバーは生肉を川に放り込み、それにピラニアが群がっている隙に亀を捕獲したという事である。

これだ。

緑亀捕獲の際、ピラニアに襲われぬためには生肉を与えている隙に目的を達成すれば良い。)
・緑亀捕獲-トイレで用を足す
・ピラニア-猫
・生肉-猫缶
とすれば
トイレで用を足す際、に襲われぬためには猫缶を与えている隙に目的を達成すれば良い。)
となり、これを実行する事により、猫の来襲に対し極めて有効な対策となるではないか。

この日より、僕は上記の作戦を実行、それが効を奏し最近は肉食獣に襲われる事は無くなった。
猫缶代がかかるものの、命には変えられない。

ただ餌を与えると、魔法が解けたかの様に僕には見向きもせず、食らう事に没頭する飼い猫を見ると、僕への殺意は猫缶よりも重要度が低いようで少し安心、少し不満。


2002.09.11

家で夕飯に鮭だと言って出された魚を食した処、どうもいつもの鮭とは違う。
何か切り身が小ぶりで色目も味もあっさりしている。
脂はのってはいるが。

鱒、そうだ、鱒だ、鱒に違いない。
巷の弁当屋には、鮭弁当と唱いながらも鱒が入っているものがあるが、その鱒に似ている気がする。

そうだ、家人は鱒と間違えているに違いない。
上記の通り、詐欺まがいの商売が黙認されている世の中である。
間違えても家人に罪はない。

するとその無罪の人が、どうその鮭、貰いものだけど「時知らず」という凄く高価な鮭なんだよ、と発した。

僕は一瞬、「味知らず」、「価値知らず」と断罪されたと錯覚し、しばし呆然。

我にかえり、改めて時知らずを口にしてみて・・・・なる程、違う、やはり時知らずは違う、色目も味も上品だ、と先程の表現を「あっさり」から「上品」へ改める、恥知らず。


2002.09.05

毎年、秋近くになると厚木に住む家人の友人が梨を送ってくださる。
血の繋がりというのは有り難いもので、それは僕の口中でも例年シャリシャリと音を立てる事となっている。
先日仕事場から戻って来たら今年も梨が届いていた。
僕が家に着く少し前に着いたのだそう。

その日の夕飯が終わり、早速その梨を頂いた。
至福の時。
シャリシャリ、持つべきものは、シャリ、良い友だ、シャリ、よねえ、シャリシャリシャリ、と家人。
大きく頷く僕。
全くその通りである。

シャリシャリ、持つべきものは、シャリ、良い友だ、シャリ、よねえ、シャリシャリシャリ、と家人。
またも大きく頷く僕。
本当にその通りである。

シャリシャリ、持つべきものは、シャリ、良い友だ、シャリ、よねえ、シャリシャリシャリ、と家人。

・・・・・

三回目でやっと家人の思惑に気付く。

厚木と言うのは神奈川県にある。
神奈川は梨の名産地である。
厚木ではないが、僕が10年近く仕事場を借りているのも同県であり、近くに梨畑が多数ある。
だが、僕は独身という事もあり、仕事場にいる時に剥かなくてはならない果物を買って食べる事はなく、自分で食べた事もない梨を実家に送るという発想をするわけがない。

つまり家人の、持つべきものは良い友だよねえシャリシャリシャリのシャリシャリシャリには、肉親であっても10年間一度も梨も送った事のない人間もいるのだからねえ、という意味合いが隠されており、その意味するところは僕への嫌みであり、三度繰り返したというのは、「強調」である。

苦々しい思いをしながら、同日に同じ神奈川から来た梨の甘味を口中に感じる僕。


2002.08.15

僕の田舎では毎年8月の13、14、15日と盆踊りが模様されます。
今年はここ二日の様子を見ると、例年になく盛況で若い子も多い様です。
僕はといえば、今年は「踊るあほう」は若い子に任せて「見るあほう」に徹しています。
「賑やか」を酒の肴にビール三昧です。

最終日の今日は、終わりが前日の2日より1時間遅く12時までです。
この延長は、実は町内でも僕の地区のみで(他の地区は11時)、踊り足りない他の地区の方達も集まり、一層賑やかになるのです。

午後6時30分、「あられちゃん音頭」が流れて来ました。
こうしてタイプしている間にもどうやら子供の部が始まった様です。

ドンドンカッカ、ドンカッカ。
この酒の肴も今日を過ぎればまた来年。

それじゃあビール片手に繰り出しますか。


2002.08.14

仕事場にいる時は独りなので当然毎食の献立の決定権は僕にある。
この日僕が夕食に下した決断は、塩サバ。
脂のある青魚の加工食品である。

決定理由は、最近魚を食べていなかったし、外食が続いていたので今日は自炊をしようと思ったので。
となるとゴミがあまりでない後片付けが楽な魚がいい、生のさんまにはアタマと内臓がある、味の開きにしたって頭がある、そう考えると頭も内臓もない塩サバ辺りが手の打ちどころではないかという-まあその程度の理由だったのである。
この時点では。

午後三時、散歩がてらにスーパーに本日の夕食のメインディッシュを買いに行く。
仕事場の近くにはス-パーが2軒あり、それは同方向に所在していて、近い方のTが仕事場から400メートル位、遠いNでもTから更に50メートル程の距離にある。
とりあえずはTへ。
現在日本では、サバはノルウェーから大量に輸入されており、おかげで年中安定した値段、しかも安価で購入ができる。もちろん家の仕事場の近くのスーパーも例外ではない。

だが、
どういう訳か
今日はTにサバが見当たらない。
気を取り直してNへ。
するとNにもサバがない。

なんと今日に限ってこの町はノルウェーの恩恵を全く受けていないのだ。

無いとなると欲しくなるのが人情で、初めは消去法で選んだサバではあるが、もうサバで無いと気がすまない気分になっていた。

サバに思考を奪われた僕は、気が付いたら電車に乗ってサバを買いに出かけていた。
もう僕はサバに操られる、しもべ。


仕事場から数駅先の電車の乗り換えに便利な大きな街で下車。

駅前で獲物とばかりに僕の前に立ちはだかる似非笑顔のティッシュ配りを振りきり、某大手百貨店の地下に潜入する。

脇目もふらず鮮魚売り場へ。
あった、サバだ!

スーパーでは、発砲スチロールの中に凍ったままで冷気を上げて山積み、という扱いのサバが、ここでは1尾ずつセロファンに包まれて簾の上で優雅に客を待っていた。

扱いが違うだけあって値段も違う。
しかも、あるとなると何かとたんに欲しく無くなるのもこれまた人情で、サバに憑かれていた僕はこの時点ですっかり正気を取り戻してしまい、購買意欲が急速に萎えてしまったのだった。

それでも電車賃とここまで来た努力を無駄には出来ず、自分に鞭を打ち、サバを持ちレジへ並ぶ。
帰り道サバをぶら下げながら電車に揺られる自分が頭にちらつき、気持ちが沈む中会計を済ませる。

夕食。

電車賃を含め、結果的にステーキ肉よりも高くついたサバは、最後の一口まで普段食べているそれとの味の違いを僕に認識させてはくれなかった。

青魚は血液をサラサラにするそうだが、値がはった分、せめてその効果が高い事を祈ろう。


2002.08.07

猫が使ってくれない猫グッズ程悲しい物はない。

我が家にも数年前に購入したMADE IN USA の、蛍光グリーンでポップな猫パンチがあるのだが、飼い猫は全く興味を示さない。(図参照)
*その形状、アメリカ産まれに引っ掛けてこの猫パンチを仮に「マイク」と呼ぶ事にする。

とにかく、家猫は遊び飽きたのではなく、購入当初から頑なに彼の存在を拒んでいるため、マイクは今でも新品のままである。
遊ばないからといって、御覧の形状を他の何かに役立てようもなく、新品故に捨てるのも気が引けて、マイクは今でも部屋の片隅で猫の気が変わるのを待っている。その姿たるや本当に悲しい。

そんなマイクに最近友達が出来た。
*日本製で色がピンクなので仮にモモコと呼ぶ事にする。

モモコは猫用の冷却マットである。
家猫がここのところの陽気で昼間は完全に屍と化しているのを見兼ねて購入してやったものである。
モモコは、水を加える事により冷える吸熱剤をピンクのシートで包むという構造になっている。
購入時は、飼い猫がモモコの上で目を細めながらくつろぐ所を想像し、普段のあの死に様を目の当たりにしていると、モモコを放さないのではないかとさえ思ったのだが、買って帰ればマイクの時と同じ反応。

家猫を無理矢理モモコの上に乗せると、立ち上がり、モモコの横で屍になる始末。
それでも日が経てばその冷却ぶりを見直し、僕を満足させてくれるだろうと思っていたのだが、1日経ち、2日経ち、5日経ち、7日経ち、実はこの冷却シートの効力は10日。

8日経ち、9日経ち、そして10日、飼い猫は一度もモモコの上に乗る事はなかった。

そういう訳で、モモコも他に使い道がなく、飼い猫の気が変わったら新しい冷却シートを購入して使う事として、暫くはマイクとの国際交流に励んでもらう事となった。

しかしこの先、この悲しい国際交流が広がる恐れは十分に考えられる。

ゆくゆく僕は、チョン〜チョル、あるいはカオサック〜チャイとかいった名前を考えなくてはならなくなるかもしれない。


2002.08.04

夏真っ盛り、僕は最近長袖のシャツの上にジャケットを羽織りよく外出をする。

今日も上記の通りの服装で出かけたところ、途中で知り合いに会い、暑いのにオシャレだね、などと声をかけられたが、それこそ訳を話すのも暑くて面倒なので、その場を苦笑いで乗り切った。この時期、外で立ち話などしていたら汗だくになってしまう。それでなくても僕は長袖だというのに。

僕がよく外出する目的というのは行きつけの図書館で仕事をするためである。

ところでこの時期の図書館は、夏休み中だけあって小学生の利用者が70%近くを占める。
勉学に読書にと励む子もいるが、殆どは視聴覚室でのヴィデオか、クーラーが効き親の小言を聞かずにすむ環境を目当てに集まった連中である。
一応、マナーを守ろうという気はあるらしいのだが、時折打ち上げ花火の様に笑い声があちこちから上がる。
やはり夏である。

さて、そういう訳で普段より混むこの時期は必然的に机を使用するのにも競争率が高い。

しかしこれがラーメン屋の行列みたいもので、回転率が以外と良く、待っていればそれ程苦もなく座る事はできるのである。

その理由はといえば、
ここで僕の長袖と話が繋がるのである。

実は図書館の机のある場所にはクーラーの吹き出し口があり、いささか寒いのである。
いや、机上の携帯電話が冷たくなるのだからかなり寒いか。

従って、半袖で長時間座り続けるのは拷問に近く、又盗難によるトラブルを防ぐため、席を立つ際には自分の荷物を持つ事と利用規約で決められているため、荷物で席を確保しつつ暖かい場所で休憩をとりに行く事はできず、身の危険を感じた者は次の者に席を譲らざるを得ないのである。

山の恐さを知らない都会の者に限って凍死するのである。
図書館の恐さを知らない者に限って半袖で来るのである。

そう、僕の長袖は図書館の過酷な環境の中で仕事をする為の対策だったのだ。

ということで、僕は今日も防寒対策をしているおかげで快適に仕事をしたのである。

仕事中、女の子が入館してきた。

利用する時間帯が違うのだろうか、見ない顔ではあるが、どうやら彼女もここが「行きつけ」らしい。


2002.07.29


ニュースです。

ここのところの暑さで水不足が心配なところですが、そんな中、くぼた家の冷凍庫では早くも氷不足が深刻化しています。

現在くぼた家のフリーザーの貯氷量は20%を切り、今も冷凍庫の製氷機の製産能力を消費量が上回る状態が続いており家族内で危機感が募っています。

調べによりますと、この激しい氷の消費は、まこと氏が好物で、この時期、毎日の様に作るアイスコーヒー、素麺を製造する際に使われる大量の氷の使用が主な原因との見方が有力で
、くぼた家では、まこと氏にアイスコーヒーの禁止及び素麺の調理制限を要求しました。

それに対しまこと氏は、妥協案としてコーヒーの冷却時に流水を併用すること、素麺は揚げて水道水で洗った後に、氷水に泳がさずに直接氷で冷やす事でその使用量を減らす事を提案し、現在家族の理解を求めています。

この提案は恐らく通るものと見られていますが、ただ、これにより貯氷量の増加が見られない場合、まこと氏は再び窮地に追い込まれる事は必至で、また、くぼた家ではコンビニでの氷の買い付け、ビニール袋を利用しての氷の増産体勢まで視野に入れた打開策を迫られるものとみられ、暫くは厳しい状態が続きそうです。



2002.07.28

仕事場兼川崎滞在時の住居として借りているマンションの鍵が変わった。
最近多発しているピッキングの対策という事だ。
新しい鍵はイスラエル製のもので、属にいうディンプルキー(鍵に溝だけでなくゴルフボールに有る様なくぼみが有る)でピッキングが極めて困難な構造だそう。

ただその分鍵自体が精密で、落とすなどのショックで僅かでも変形すると開かなくなってしまうととの事。
またスペアキーを作るのにも技術がいるようで、普通の鍵の十倍程の値段になってしまうらしいのだ。

田舎と都会の二重生活を送る僕は、帰宅後疲れに甘えて、その辺に鍵も放りなげることもうっかり出来なくなった都会での生活が増々ナーバスなもの感じられる。


2002.07.27

コンビニ。
その便利さを盾にスーパに比べ、値引きをあまりしない店である。
その点において、庶民派の僕としては軽く反感を持っている。
だから僕は自分の都合のいい事だけにコンビニを利用してやるのだ。
僕がコンビニを利用する時は、

1.スポーツ新聞を買う。
2.弁当を買う。
3.マンガの下書きをコピーしに行く。
4.缶コーヒーを買う。
5.スーパーが閉店してから欲しいものがあった場合それを買う。
6.本類を買う。

1,2,3,6はどの店でも基本的に値引きをしないものであるからコンビニを利用しても損はない。

4はこのためだけにスーパーに並んだりするほうが手間的に大変だし、そうなると自動販売機で購入するより札などを気にせず使えるコンビニのほうが便利。

5はそのままの意味。

だから基本的にスーパーで値引きされていてコンビニで値引きされていないもの、例えばカップ麺や菓子類はここでは購入しないのだ。
僕はこれからもコンビニをいいように利用してやろうと思っている。

(なんだかんだいってこれだけ利用していればコンビニ側の思う壺)


2002.06.08

僕はその定食屋で久しぶりに腹をたてたのであった。

ミックスフライ定食。
先日所用で出た際の昼食、僕はふらりと入った定食屋で、普段では値段の折り合いを考慮してまず頼む事のないそれを頼んだのである。
2000円オーバーというそのメニューを頼んだのは単なる気紛れで、定食屋にとって、たまたまその気紛れがここで発揮された事、メンチカツあたりでお茶を濁されなかった事は全く運のいい事であり、彼等も得をしたものである。

30分近く待たされた後に注文の品が運ばれてきた。
因みに僕が腹をたてたのはここではない。
海の幸、山の幸を個々がいい塩梅に揚がるのを調整し、完成させる困難を考えるとこの程度の時間は許せる範囲である。

冷めないうちに早速食べる準備をする。

ところが。
フライを食べようとソースを探したところ見当たらない。

日本人にフライには何をかけるかとアンケート調査を行えば80〜90%がソースと答えるのではないか。
それだけフライ=ソースというのは常識としてこの国で認知されているものだ。

この店は常識が通用しないのであろうかと思って周りを見回すとソースのない非常識は僕のテーブルだけであった。

この事実を冷静に分析してみるに、恐らく答えは一つであろうが、僕が腹を立てたののはここでもない。
ここでは、まだ腹をたてるのは時期尚早ではないかと思いとどまったのだ。
なぜなら、もしや僕の注文したミックスフライには、既に十分な味付けがなされており、ソースをかけてしまうとそれを食べるのに適切な塩分量を超えてしまうのではないか、そうだとすると、ソースがないと店側に指摘する事自体は世間的に正しいとしても、僕がミックスフライを食べる事とは別問題となり、僕は発言の発端となった感情の処理に困惑し、苦笑いする事になりかねないからである。

そう思いミックスフライの中のヒレカツをひとかじりする、

が、やはり味がない。

これで僕のテーブルにソースのない事に対し、僕が抗議する正当性を確認できた。

僕の腹はこの辺からにわかに立ってくる。

僕は直ちに「すいません」と大声で撥音をし店員を呼ぶ。
しかし厨房から出てくる気配がない。
痺れをきらした僕は、自ら厨房の前まで出向き、店員を呼び、客として不等な扱いを受けている事実を顔に出し抗議したら、今持っていきますとの返答。
腹立ち度50%
先に席に付いて店員を待つと、直ぐにソースを持って現れたのだがその店員の顔つきに唖然とする。
彼の顔は、僕が客として不等な扱いを受けている事実を顔に出し、抗議した時の顔に負けず劣らずの様相だったのである。
腹立ち度80%

何故僕がこんな顔をされねばならぬのか。
もしや、この店員はサービスする事が仕事ではないのか、その人に僕は怒りをぶつけてしまったのか。

実は僕に出されたこのミックスフライ定食は無料で、それなのに僕が客としての扱いを求めているから彼は怒っているのか、等と思いながら、感情の高ぶりで味も良く判らぬまま食べ、レジで清算をするもやはり提示額を払わされたのであった。
腹立ち度100%

お前の店ではもう二度と気紛れを発揮るものか、と捨て台詞。

お陰で少しスッキリし、腹立ち度85%



2002.06.06

家人がヨーグルト菌の増殖に着手し始めた。
随分と変わったものを育てるものだ、金魚や犬、猫の様に観賞に値するエンターテイメントな容姿、動きをする生物を育てれば良いものを、いやまてよ、微妙な変化を見せるヨーグルトこそ日本の精神性、わびさびに通じるのであろうか、家人は日本人らしくあろうとヨーグルト培養に走ったのであろうか、等と思ったのだが、どうやら深い考えは全くなく、観賞の為でもなく、単に健康の為に常食する為とのこと。

日本人うんぬんではなく、スイス人(ブルガリア人)である。

家人はどうも培養したものを僕にも摂取させようという腹らしく、毎食時にヨーグルトが食卓にのぼるようになった。
とりあえず僕も生理的に口に合わない等の理由もないため出されたものを胃に収めていた。

そうしてヨーグルトを摂取し始めて数カ月、僕の体にいい意味で変化が出始めた。

体重が高校生時以来60キロ代となったのである。
ここ2ヵ月で5キロ減である。
他にダイエットしたわけでもないし、体調が悪い訳でもないので恐らくはヨーグルトによるものだと思われる。

そういう事で調べてみると、食事時に乳製品をとると、摂取した炭水化物が糖分に変わるのを遅らせる働きがある事が分った。炭水化物がゆっくり糖分に変わると、色々と理屈があるのだが、結果的に体に貯えられる脂肪分が減少するとの事で、所謂今流行りの低インシュリンダイエットと同じような効果があるようである。

また、善玉菌であるヨーグルト菌が腸内を整え、老廃物の排泄がスムースに行われる様になり、その結果、体に溜まった毒素が抜け、新陳代謝が高まり、脂肪が燃焼され易くなったという事も考えられる。

とにかくヨーグルトは僕の体質改善に一役かってくれているようである。

このまま体重の減少が続き、見た目で認識できる様になり、知人に「なんか別人のようだね、どうしたの?」と言われたならば、「スイス人になったからね」と言ってやろうかと思っている。


2002.06.03

現在日本と韓国では、世界の予選を突破した各国が、国の威信を賭けて、足で西瓜大の玉を敵の網にどれだけ蹴り込めるかという競技の、4年に一度の大会が開催されている。

今の時期は、投げた玉を木製の棒にて打ち合う競技の真只中でもあるが、こちらは日本内での、しかも毎年行われる争いでもあり、世界規模で4年に一度の上記の競技のほうが、皆の興味が高い様である。

しかし足での玉入れなり、棒での球の打ち合いなり、第一線で活躍する技術修得者の連中はかなりの額の報酬を貰っているそうである。
やはり何ごとでも極めるものである。

僕も皆が感心する様な嘘の話の創作の極意を極めたいものだ。


2002.05.29

何度もいっていますが、靴収集が趣味の僕。
先日流行に関する情報を扱ったある雑誌を読んでいると、革靴(紳士靴)に関する話題が掲載されており、現在は革靴ブームとなっているようで、得に靴の販売に力を入れている某デパートでは、イギリスメイドなどの本格靴の売り上げは前年比の140%の伸びだそうです。
これは他の方の靴に関するHPの掲示板の書き込みや、最近のファッション雑誌の取り上げ方を見ても納得の出来る事実であります。

このブームはどうして起こったのでしょう。
僕は知っています。
当初はファッション雑誌や靴関係者の方の努力によるものかもしれません。

しかし、その後のブームの持続には恐るべき事実が。

クッション性の乏しい革靴ばかり履いていると、歩く際の振動が直接脳に伝わりあまり宜しくないという記事を読んだ事があります。

革靴を履く事によって、もたらされる継続的な脳への振動。
知らぬ間になっている、パンチドランカーならぬ、革靴ドランカー。

気が付くと、革靴で歩く事が快感となり、いつの間にか靴の数も一足又一足と・・・。

革靴ドランカーの皆さん、リハビリのために、たまにはスニーカーを履きましょう。


・・・え、あんたもなッ?


*一方若者を中心にスニーカーブームも相変わらずのようです。

そう言えば以前、現在のスニーカーは、あまりにクッション性が飛躍したため、長年スニーカーばかり履いていると歩く際にクッションの役割をしている膝の軟骨が退化してしまうという記事が新聞に載っていました。予防としては時々クッション性の悪い靴を履く事だそうです。

スニーカー好きの皆さんはたまには革靴を履きましょう。


2002.05.28

先日寿司屋に行った時の話。
カウンターに座ると、客と板前の話が耳に入ってきた。
それによると、海鞘(ホヤ)は「通」の食べ物らしい。

僕は産まれてこの方、海鞘を食したことがない。
理由は、なにやら意味不明の生物であるし、(親は球体のイソギンチャクみたいクせに、子供の頃はおたまじゃくし状というのだから本当に得体がしれない)この飽食の時代あえて口にせずともよいであろうという判断をしたからである。
それにしても何故、板前とその客は僕が横にいると言うのに、海鞘が通の食べ物であると互いの意見を確認しあうのであろうか。

通の食べ物といわれれば、見栄っ張りの僕がそれを気取るために頼まなくてはならなくなるは判りきっている事なのに。

それに、海鞘が通の食べ物だと言っている割にはお客さん、あなたは頼んではいないではないか。
卑怯ではないか。

釈然とはしないものの、見栄っ張りの僕は、二人の会話のほとぼりが冷めた頃に海鞘を注文することにした。
いかにも食べ慣れているがごとく、さりげなく。
何故なら僕は見栄っ張りであるから。


しかし海鞘はそんな僕の見栄を許してはくれなかった。

僕は以前食した事があり、ゲテモノ的に同じ匂いのするナマコの味、触感を思い出し、仮想海鞘として頭の中でシュミレーションをし、対面に備えていたのであるが、それらが意味をなさぬ程に海鞘の存在感は圧倒的だったのだ。

海鞘は僕の目の前に胡瓜とともに二杯酢に漬かってその姿を現した。

まずはその量である。小どんぶり一杯もあるではないか。

観察をすると、海鞘の肉片には内臓と思われる脳に似た形状のものが付着しているものがある。
少しばかり気が遠くなる僕。

意を決して食してみるとナタデココの様な微妙な歯ごたえと口一杯に広がる海の香りと風邪薬の様な苦味。

それでも何とかポーカーフェイスを保って平らげようとする僕に板前が聞いた。
「お客さん海鞘は初めてですか。」
「え、あ、ああ、はい」
「いや、お客さん酒を飲んでしまった後に海鞘を注文為さったから。海鞘は酒と一緒にやるのが最高なんですよ。」

なんだ、ばれてたのか。こうなったらぼやいて笑いを取るのが一番である。
「なんすかこの量!こりゃあ味わうってレベルの量じゃないですよ、どんぶりって・・・あんたこりャ腹一杯に満たすってレベルの量じゃないですか。こういう珍味系の物はちょっと食べるからいいんじゃないんですか!」
「でも、それで一個分ですよ。」
「そうなの?」
「好きな人は、その汁の中に焼酎を入れて飲む人もいるくらいですよ」
「えっそんな人が!?信じられない」

さっきまで通ぶっていた奴から、「信じられない」という言葉が出るのが信じられないが、とにかく、これが、僕の海鞘とのファーストコンタクトであった。

海鞘、値段が安いにもかかわらず、その独特な味と容姿が食べる人を限定するが故に「通」の食べ物と言われる海の幸。
取りあえず初戦は敗退であるが、機会があればきっと僕はまた勝負を挑むであろう。
何故なら僕は見栄っ張りであるから。
そうしているうちに、いつしか海鞘の味に慣れ、本物の「通」となるのやもしれぬ。


2002.05.27


僕は一ヵ月置きに、仕事場と実家を行き来する二重生活を送っている。

そのため、趣味である靴も両方に振り分けている。
環境柄、仕事場での生活は歩く事が非常に多いので、そのため置いてある靴はごつく頑丈な造りの物ばかりである。
実家ではその逆で、交通手段に恵まれているため、あまり歩く機会がない。靴は履き心地の良い、素材、あるいは造りがデリケートな物ばかりである。
それらの靴を履いていると、一ヵ月もすると足に変化が出てくる。

仕事場のごつい靴と言うのは、足にしてみれば過酷な環境であり、僕の足はその環境に適応すべく、踵や小指を角質で強化、武装する。しかし実家でデリケートな靴ばかり履いていると、仕事場に戻る頃には、その武装が解除されてしまうのである。

そういうわけで、僕は仕事場に戻った何日かは、足を引きずりながら、角質の再生を待つ事となるのである。

最近は流石にこのままではいかんと思い、現状を打破すべく、実家へのごつい靴の導入、及びその靴での散歩の実行を考えている。
ごつい靴は、仕事場からの出向という手もあるのだが、ここは靴好き、新たな戦力の補強といきたいところである。

問題は家人が、僕の角質の維持の重要性にいかに理解を示すか、にかかっている。


2002.05.24

焼き鳥屋で。

何にしましょう。

「カシラにしようカシラ」

「タンにしタンじゃないの?」

「じゃあレバーにすレバー」

「シロにシロ」

おすすめは?
「スズメがおススメですが」

「この店ツクネはツクンネ-の?」
すみません

「あ、カモもいいカモ」

「ハツはハツ挑戦だなあ」

「テバを頼んでっテバ」

それじゃあ御注文を確認させていただきます。

イチゴパフェがお一つ
なんでやねん


  
*いかに書く事がないか判りました?


2002.04.14

僕の実家の裏は畑である。
実家は海岸に近く、従って畑は砂地で、しかも手入れをしていないので肥えてはいないのだが逆にそれが効を奏しているのか、この3月4月の時期になると野蒜(ノビル)という植物が呆れるくらい群生するのである。

野蒜はユリ科の植物で食用になる。

野蒜の「蒜」というのは、元々ネギを指す言葉で、味も葱とニラを合わせた様なテイストである。

地元では、食べ易い長さに切ったものを軽く湯通しをし、切り昆布、切りスルメ、人参と一緒に醤油、酒、みりんで1、2日漬け込んだ、所謂「松前漬け」にして食べるのがポピュラーである。食後はニンニク並みの持続力のある匂いを発揮するのが難点だが、酒にも御飯にも合い、非常によろしい。

また繁殖力が非常に強く、採っても一雨降ればまた生えてくる。

自分の家の畑に育ったものではあるが、何も手をかけていないのに収穫するのはいささか申し訳なく感じはするものの、しかし僕は毎年、この時期の野蒜の自主性に密かに期待しているのである。

ああ旨かった、
と食後に吐く息が今日も臭い。


2002.04.10

コーヒー。
アメリカ人は日本のあんこ、豆を甘く煮る行為を気持ち悪がるが、豆の焦がし汁に砂糖やミルクを入れて飲むコーヒーの方がよっぽど手のこんだ悪趣味ではあるまいか。

その悪趣味であるが、僕は好きで日に3杯は飲む。多い時はその倍はいく。
コーヒーは体に悪いとばかり言われてきたが、最近では癌に効果がある事が分ったそうである。
(余談ではあるが、このての定説は直ぐ覆されるものだ。だから最近の健康ブーム、毎日手を変え品を変えあれが良いこれが良いとTVで紹介している食品に関しては僕はあまり信じない事にしている。どんな食品にも、良い面と悪い面があるはずで、今のTVでは良い面ばかりをアピールして囃し立てていて、それで視聴率をとっているとしか僕には思えないのである。)

しかしながらコーヒーの味を冷静に考えてみるとそれ程美味なものではない。
僕の場合、少なくともコーヒーは、他の好物である焼き鳥や寿司の様に旨さをダイレクトに感じるものではない。
この褐色の液体を自身が頻繁に飲む理由はカフェインによるものと思われる。
要はカフェイン中毒である。

まあ中毒だともしても法に触れる訳ではないしこれからも飲む所存である。
あちらの系統の薬と違い、別に妄想に襲われることもないし。

というか、仕事柄、中毒にならなくとも妄想に耽っているし。


2002.04.06

アメリカ資本の店に入る。
ここはリング状の小麦の生地を油で揚げた菓子をメインに置いて商いを営んでいる店である。
所謂、ドーナツ屋、である。
ドーナツのリング状は、早く火が入る様にという合理性の元に産まれた形らしいが、そこに目をつける、流石はアメリカ資本。

ところで僕は、ドーナツというやつがあまり好きではない。
では何故この店に入ったのかと言うと、行きつけの喫茶店が定休日だったからであり、そもそも何故喫茶店に足を向けたのかと言えば、気分転換で場所を変え仕事をしようと思ったのが理由で、つまりはドーナツ屋へは仕事をするために入ったのである。

ドーナツ屋は僕の好みとは関係なく混雑していた。混雑していたにもかかわらず入ろうと思ったのは、席がポツポツ空いているのが外から見えたからである。
ガラス張りのその店の造りは、その効果を十二分に発揮している。

そういう訳で、ドーナツ屋に入っておきながらドーナツが目的ではない僕は、注文はせいぜいコーヒーだけで結構なのだが、小心者故、店の込み具合とコーヒーの代金を考えるに、どうも居心地よく過ごせそうにない様に感じた。
店への貢献として、またはこれから長居する正当性を得るために、ここはドーナツを2,3注文しておく方がこの先強気に振る舞うことができるだろうと判断をする。
また僕のテーブル上に存在するそれを観た新規の客に、この席が暫くは空く事がない事を納得して理解して貰えるに違いないし。

そう思った僕は、後で胃に納めなくてはならない事を考慮し、成るべくあっさりとしていそうな物をと、プレーンタイプとそれにチョコレートが少しばかり付いたものとアイスコーヒーを頼もうと心に決める。

そうと決まれば、後は仕事をするだけだ。
因みに漫画家の僕が喫茶店でする仕事は、アイデア出しとネーム(コマ割り等の構成を考える事)である。
まさか、こういった場所で絵を描きはしない。

注文を済ませ、代金と引き換えにドーナツとコーヒーを受け取り席に着く。

ところが、
準備万端になってみると、どうも仕事をする気になれない。
目の前を子供が意味不明の言語を発しながら無駄な往復を繰り替えしている事も理由の一つではあるが、もしかしたら僕自身、行きつけの喫茶店が休みだった時点で仕事をする事を諦めてしまったのかもしれない。
すっかり気が抜けてしまっている。
アイスコーヒーを飲みながら気持の高ぶりを呼び覚まそうとするのだが、例の子供もドーナツに用はない様で、相変わらず奇声を発して往復しているので集中が疎かになりがちでうまくいかない。
諦める。

仕事をしないとなると後はドーナツを片付けて帰るだけである。
ふとアイスコーヒーが殆どない事に気が付く。
失敗である。
僕は心もとないアイスコーヒーを味方に付け、ドーナツが口内の水分を奪うのと格闘し、ホットコーヒーだとお変わりが自由だという事実を店内の広告で知り、尚更後悔の念を強くし、口をモゴモゴとさせながら家路に着いたのであった。


2002.04.04


世の中に下品な食べ物は数あれど、僕が思うもっとも下品な食べ物は、某牛丼チェーン店の、御飯の上にカツが乗り、その上にカレーと牛丼の具が半分ずつかかった代物である。

・まず見た目に「知性」が感じられない。
カツカレーと牛丼の共演を実現させるために、必然的に大盛りである。
その暑苦しい容姿は、悪く取ればブタの餌ともいえなくもない。
カツカレーと牛丼を別々に頼んだ方がまだスマートである。

・発想に「理性」が感じられない。
まるで、ただ食欲という「欲」さえ満たせば良いという考えの元に産まれたモンスタ-。
カレ-と牛丼の具を同皿上に盛るという事は、必然的にその2種が産み出す「渾沌とした世界」が存在するという、通常の神経では堪え難い「無神経」を黙殺しているのである。

胃の弱い者は、観ただけで胸焼けを起こしそうなカロリーの権化。

ただ、

腹が空いている時に、このメニューを無性に胃に収めたくなる時がある。
そんな時は、カレーと牛丼の具の「渾沌とした世界」がまたいいのだと肯定的にさえなっている自分がいる。

理性も知性も食欲の前には無力と化すのである。

しかし、食欲を満たした後は理性と知性が有効となり、言い様のない虚無感に襲われるのであるが。

そのカタルシスがまたよかったりする。


2002.04.02


最近は静岡でもストリートミュージシャンという連中が、市内の地下道などで道行く人に聞こえる様、節の付いた発声をしている。
公共の場で無許可で行動を起こしているに違いないが、個人的には才能と努力が伺える輩にはあまり腹が立たない。金を放り投げるのはさい銭箱だけと決めているので、口を空けてアピールしているギターケースは黙殺するが、「頑張れよ」と心の中では呟いたりもすることもある。

問題は、才能と努力の伺えない者である。

それにしても先日遭遇したストリートミュージシャンはひどかった。
いや、あれはストリートミュージシャンとは呼べぬ代物だ。

静岡で人に遇うため某喫茶店に出かける途中の地下道。
聞き覚えのある歌詞を、全く聞き覚えのないメロディーで歌っているこの男は一体何者なのだろうか。
お笑い芸人としてはもしかしたら天才かもしれぬが、ミュージシャンだと言い張るなら裁判で勝ち目はない。

笑いながら通る通行人もいたが、僕は、もし彼が真面目な性格で、自分の実力を把握せずにパフォーマンスを行っていた場合、事実を認識した時の精神状態、あるいは、近所の人が彼の熱唱を耳にしたら、彼の両親の立場はどうなるのかなどを心配などしてしまい、胃がきりきりとし、いたたまれない気持ちで彼の前を急いで通り過ぎたのであった。

現代の日常生活は、機械化が進み便利な世の中にはなっているが、TVのリモコンがちょっと見つからずに探す時のイライラ、パソコン操作のちょっとしたもどかしさ、夜でも明るいネオンの光等、それらのほんの少しのイライラが積み重なって、20年前には考えられない程のストレス指数で、疑いなき成人病の一要因だそうである。

TVのリモコンがちょっと見つからずに探す時のイライラから考えると、僕が彼に受けたストレスは殺人的といっても過言ではない。
静岡の地下街にとんだ危険地帯があったものである。



人に遇う用事を済ませた帰り道、僕は忘れていた。
無防備だった。

あの地下道を通るとまだあの声が響いていた。
ボクサーは、気を抜いた時の一発がもっとも効くという。
「人が心配してやっているのにおまえは〜〜〜。」
駆け寄って行き、胸ぐらを掴んでやろうと思ったのだが-

-ギターケースをちらりと覗くと、行きと何も変化がない事に気付き思いとどまった。
彼のギターケースは今後もギターを入れるためだけに存在するのであろう。
彼が逆境に燃えるタイプの人間でない事を祈る。


2002.03.27

久しぶりにおでん屋に足を運ぶ。
静岡市にある青葉横町という、おでん屋が10数軒並ぶ飲屋街の一軒。

静岡のおでんはオリジナリティーがあり、特にそれは出し汁に顕著であり、関東風の醤油色のダシのそれとも、関西風の澄んだダシのそれとも違う。
真っ黒なのである。
それは創業当時から毎日減った分のダシを足しながら使い続けているその方式に要因があり、豚骨ラーメンのスープによく見られるスタイルである。
もしや静岡というところは鰻も有名であるからして、同様の方式がとられている鰻のタレの方から発想が来ているという事も考えられるのではないかと、今ふと、思い付いた。
とにかく、その真っ黒なおでんに洋がらしをつけ、イワシの削り節の粉末と青のりをかけて食するのが、静岡おでんなのである。
味は色のイメージとは違い、あっさりとしており、幾らでも食べられる。

それにしてもここのおでん屋に入るのは十数年ぶりである。
実はここはおでん屋といっても、焼き鳥も串揚げもある。
お店の作りは屋台に屋根を付けた様なもので、真ん中におでん鍋と、フライ鍋、七輪が埋め込まれたテーブルがあり、それを客が囲む形になっている。
注文すると、目の前で焼き鳥を焼き、串揚げを揚げてくれる。
おでん屋ながら、焼き鳥も串揚げも本物である。
焼き鳥屋でも、電気やガスで焼いているところも多いというのに炭火なのであるから、たいしたおでん屋である。

そうそう、おでん、おでん。
なんといってもここはおでん屋である。
席に着いた僕は、早速ビールを頼み、おでんをもらう。
こんにゃく、牛スジ・・・、しかし大根は頼まない。
というのは、大根はないからである。
静岡おでんのおでん屋の辞書には「大根」という文字はない。(あるお店もあるかもしれないが、ここはあえてないといっておく)
静岡おでんはどのタネにも串が刺さっている、串おでんなのである。
大根は煮えると串から外れてしまうからないのだ、というウワサがあるのだが定かではない。
大根というのは、長く煮ると苦味が出てきたりするが、ダシを変えない静岡おでんはそれを嫌っているのかもしれない。

おでんを食べる前にまずビール。この頃にはもう店は満員になっていた。といっても15人も座ればぎゅうぎゅうである。
その狭さが客同士の気遣いを産み、急速に皆と打ち解ける。
「今日病院に検査に行ったんだけどよ、待ち時間が長い事!!2時間も3時間も待たされて検査が5分なんだから・・・」
と、お客のおじいさん。
「腹が立って病気にならア!」
全員大笑い。

なんか久しぶりに来たという気が全くしない。

-ただ、
おでんの味は十数年分の旨味が増したようだ。


2002.03.24

春本番。
桜の花より先に、スギの花粉が舞い散るこの季節。
知人の話を聴くに、花粉症の皆は例年になくひどい様。

しかしこの春僕は、なんやかやと忙しく、家を出る機会にあまり恵まれないのが不幸中の幸いか、とにかくお仲間のぼやきに付き合える程鼻水を垂らしてはおらず、そうなると、ちと寂しかったりもするのである。

だがしかし、天気が良いのに外に出られぬのはどうも歯痒い。おまけに花粉症のため窓も開けられぬのは気分が宜しくない。
外が恋しい。
外には一切出さない家猫を見ると、お前はいつもこのような思いをしているのだなあと、今更ながらに同情心がわいてきて、家族に内緒で猫缶を奮発してやったのだが、猫は見向きもしない。幾らも経たぬうちに、餌入れの猫缶の存在は皆に知れ渡る事ところとなり、追求の手は直ぐに僕にも及ぶのだろう。一時の感傷に浸り、バカなまねをしたものでなあ等と思う。

そんな失敗をすると、尚更自分が狭い世界にいるのが実感され、用事を脇へとやり、花粉舞う中に身を投げ出したくなる。
そうだ、図書館へ行く用事をこしらえよう。
図書館は最近の定番である「体裁のいい口実」である。

ナイロンのスプリングコートを羽織り、いざ出発。
なんでも、ナイロンは表面がツルツルなため、花粉が付きにくく、直ぐ払い落とせるのだそうだ。
春にはツルツルである。

図書館に着く頃には、鼻がムズムズとしていた。
人間は欲求が満たされると後は後悔ばかりする生き物であると、ものの本で読んだっけ。
忙しいのに何故外になど出てきてしまったのか、しかもこの花粉の季節に、鼻を垂らせぬとちと寂しい?そんな事を言う輩はどいつだ。

急いで家に帰り、鼻を洗う。
汚染は軽度で一安心。
昼の食事の味覚も判る。
今日はスパゲティー。
春にはツルツルである、
-などと下手なシャレを言ってみようと思ったがやめる。

スパゲティーを平らげ、コーヒーを飲み、一安心。

ちらりと、猫の餌入れを見る。
餌はまだそのままになっていた。




2002.02.05

同じアジア人でも、日本人以外の人を日本で見かけると何となく判る事がある。

別に注意して探している訳ではないので、潜在位意識の中で、服装や髪型の違い、シチュエーション(ある程度年令のいった大人がグループで原宿などを歩いている違和感)等を感じ取って判別しているのだと思う。
その国のオーラの様なものを感じ、韓国の人か中国の人かさえ当たる時もある。

実は先日の香港旅行で、僕は街中でニセモノの時計を売っている怪しい輩に幾度となく声をかけられた。
「オニイサン、トモダチ、ニセモノトケイ、5000エン」
いきなり日本語ということは、僕を日本人と認識しているという事になる。
彼等を観察していると、日本人を見極めて声を掛けているようなのだ。
やはり日本人オーラが出ているのだろうか。

僕は香港人となるよう振る舞いに気を付けてみた。
日本のアイドルが香港でも人気があるため、その影響もあるのか、幸い服装や髪型は日本と変わらない様だ。
僕はツアーではないので、少なくとも大勢で行動している類いの観光客と醸し出す雰囲気は違うだろう。
振る舞いさえ堂々としていれば、話さない限り日本人と解らないのではないか。

とりあえず僕は脇目もふらず目的地に行くために急いでいる香港人をイメ-ジして歩いてみた。

すると例の時計売りからのアピールは半分くらいになった。
やはり僕からは、香港に来た好奇心が体から滲み出ていたようだ。

それでもまだ声をかけられる。
なぜだろう。

その疑問は、同行した人の買い物に付き合ってやった時に判明した。


僕達が滞在していたホテルのショッピングモールのあるお店での出来事。
全く英語がダメな同行人に変わって、僕がつたない英語で交渉をしていると、「あなたはこちらに住んでいる日本の方ですか。」と聞かれた。

僕を香港の住人と間違えているのだ。
何故だろう。
街中では時計売りに素性を見破られっぱなしだというのに。
あの時と今とは何か僕に違いがあるのだろうか。

そう思って僕はある事に気が付いた。
そうだったのか。
店員が僕を現地の人間と間違えたのは服装にあったのだ。
といっても、日本人特有の格好とかそういう意味ではない。

僕の格好は紺のチノパンにブルーとホワイトのストライプのストライプのボタンダウン、黒のニットタイ、黒いVネックのセーターに黒の革靴。

つまり上着(ジャケット)を着ていなかったのだ。
香港のこの時の気温は15℃位で、上着を着ても着なくてもいられる気温。
街に出る時はいつも上着を着ていたが、今回の買い物はホテル内のお店ということもあり、この時はジャケットを部屋に置いてきていたのだ。

それに加えて僕は手ぶらだった。
・ネクタイはしているのにジャケットを着ていない
・しかも手ぶら
このスキのある格好が、香港慣れしている、あるいはこの近所に住んでいる日本人と思われたのだ。

そう推理をたてた僕は、それを立証すべくその格好のまま街中に出た。
すると案の定、時計売りの前を通っても見事に無視をされたのであった。

別に勝ち負けではないが、僕の頭の中ではロッキーが勝利した時の例の曲が響き渡り、居るはずのないエドリアンを抱き上げるために、僕はホテルへ早足で引き返したのであった。


2002.01.27

乾布摩擦を始めた。
乾布摩擦とは、布の繊維を皮膚上で往復運動させる事によって起こる摩擦により、皮膚に刺激を与えることである。
己はじじいか!
と家人に問われたがそうではない。

そもそも皮膚への刺激になんの意味があるのか。
実は皮膚に刺激を与える事によって新陳代謝が高まり、自律神経が鍛えられるのだそう。

皮膚への刺激で思い出すのは、小学生の頃の事である。
僕の小学生の頃は、校則で冬は短パンだった。上も薄い校服に長袖を下に一枚着る程度だった。
其れ故、皆冬になると、寒風で足が乾燥して粉が噴き、腿を赤くまだらにして通学したものだった。
現在は母校を含め、この地域で短パンで通学している小学生をほとんど見かけた事がない。
全国でも傾向としては似たものではないだろうか。

しかし考えてみれば、寒風に足をさらすという事は皮膚への刺激という面で乾布摩擦と同じ効果があった様に思う。

最近は、アトピーや乾皮症に悩まされている子供が多いという。
それらは冬に短パンで駆け回る僕らの子供の頃は、あまり耳にしない病気だった。
今の子の病気は、勿論生活環境が変化している面もあるが、皮膚を可愛がり過ぎることにより、新陳代謝の低下、自律神経が鈍っている事も少なからず原因があるまいか。

己はじじいか!
そうではないのだ。
それどころか僕の皮膚は小学生のあの頃に戻っているのである。


*なんか普通のコラムだなあ


2001


2001.12.01

微かなその高周波音が、眠りの浅くなっていた僕の目を覚まさせた。
目隠しをされ、知らぬ場所に連れてこられたがごとく、僕の脳は唐突に与えられた情報を処理し現状を理解しようと働く。
高周波音を今までの人生経験で得た記憶と照合する。

と、やはり、
音源の主は奴としか思えない。
僕は自分の身に危険が迫っている事を認識した。

だが今は師走。奴には場違いな空気。
しかし、ここのところの日中の陽気と静岡の気候を考慮すればそれほど不思議な事ではない。
そう言えば、数日前にも奴の姿を目撃した事を思い出し、確信に至る。

数億年前からその姿を変えていないという原始生物。
暗闇の中でも、人間の吐く二酸化炭素を嗅ぎ付けて奴は襲って来る。
生き血を啜るために。

この夜、僕は餌食として奴に選ばれたのだ。

だからといって指をくわえて黙っているものか。
やられる前にやってやる。
アドレナリンが体に巡る。

しかしまて、僕はある事に気が付いた。
戦いとなればまず武器だ。
古来より続く奴との戦いの中で、人間は様々な武器を産み出してきたが、季節から来る油断、僕はそれらを片付けてしまい、現在その所在を思い出すことができない。
AM3:25
起きているのは僕一人。
家族を巻き込む訳にはいかない。
ガタガタと武器を捜しまわり、起こす訳にはいかない。

となると僕は全くの丸腰で奴と戦いに望まねばならぬと悟る。

リプリー = 僕

頼れるのは自分のみ。
やってやろうじゃないか。
感情の高ぶりに笑い出したくなる。

電気を付け戦闘開始の狼煙を上げる。
腰を極め、首を動かし、目を凝らし奴の発見に意識を集中する。

居た、奴だ。
僕の目前をあざ笑うかの様に通り過ぎていく。
と、思ったら、直ぐに僕は奴を見失う。
タンスの「茶色」を保護色に利用されたために判別ができなくなったのだ。
笑止な、この部屋はお前にとってはアウェーゲーム、俺のテリトリー。
この環境を味方につけているのは俺の方なのだよ。

僕はカーテンの方に身を移し再び奴の姿を探す。

ほら、来た来た。はっきりとわかるぞ、空色のカーテンをバックにして飛ぶお前など裸も同然よ。
おやあ、お前さすがにこの季節となると夏程の動きができぬようだな。
そら、行くぞ、それ、
「パチン」(周りに遠慮した音)
ちっ、はずしたか…俺の方も、頭は覚醒したとはいえまだ体が思う様に反応しないみたいだな。
条件は五分と五分って訳だ。
それ、
そりゃ、
おりゃ、
………………

なかなか着かぬ決着。
勝負が長引くに連れ、相手の力を認めざるをおえなくなり、すると何やら敵にも情のようなものが湧いてくる。

やるな、
それ、
ふん、

フッ、
考えてみると、初冬に生まれてきてしまったお前も可哀想な奴だな。
俺が仕留めなくても、季節的に長くは生きられまい。
しかし、勝負は勝負だ、
それ、
ふん、
そりゃ、
そこだ、
とお、
そりゃ、
とりゃ、

「パチン」

AM3.34、奴は遂に僕の右手と左手の圧撃の前に散ったのだった。

紙で手を拭き、電気を消し、床に入る。

僕はにやりと笑い、目を閉じた。

フ…野郎たっぷりと血を吸っていやがったな。






(リプリーはエイリアンの主人公)


2001.11.24

人間が産みだすエネルギーを一つの目的のためだけに使用するのはもったいないことです。

どういう事かというと、例えば人間が階段の昇り降りに使うエネルギーは、ただ自分の体を上下に移動するという目的のためだけにしか使われていません。もし階段に人の体重の増減を感知して発電をする機能が備わっていれば、昇り降りに使う体重移動のエネルギーを利用して電気を起こす事ができます。
つまり足の屈伸運動が、移動と発電に使われている訳で、よりエネルギーを有効に使うことになります。

この考え方は他の色々な人間の行動にも当てはまります。

・人生で何千万、何億回廻すか解らないドアノブ。このドアノブを廻すという運動然り。


・栄養を取るために物を噛むうという顎の運動然り。

・etc・・・

その点、自転車のライトには拍手を送りたいですね。
目的地に到達するためにペダルを漕ぐという運動が、ライトの発電という役割も果たしています。

上記した例は、人間の行動に関してのものですが、生活に使う燃料等によって発生させるエネルギーにも同じ事が言えます。

例えば電気やガスで暖めた風呂のお湯の熱量です。
入浴してしまえば、その後は湯をただ放置して冷ますか、捨てるかですから。入浴後のお湯の持つ熱量は無駄にしています。

・クーラーの排熱も同様です。

すこし話が脱線しましたが、つまり僕が何を言いたいのかというとですね、君は痩せるために走ったりダンベルを上げたり下げたりしているけど、どうせカロリーを消費するのなら、掃除を念入りにやったり洗濯を手でしたりするほうがエネルギーを有効に使えるのではないかということです。

え、人に説教してないで、あなたこそ漫画のネタ出しのために時間とエネルギーをを有効に使ったらどうかって?

-そうします。


2001.11.22

恐ろしいもの。

戦争。

狂牛病。

不況。

これらは勿論恐ろしい。

恐ろしいが、しかしそれらと同じ位、手の震えている理髪師も恐ろしい。


本日は、秩序が欠落し始めてきた自身の髪を切るために理髪店に足を運んだのだが、行き付けの店が臨時休業だったため、別の某理髪店に初めて入ったのだった。
-しかしそれが間違いであった。

その店には理髪師が3人いたのだが、よりによって僕の担当は一番の年輩、どうみても70は超えていそうな老理髪師になってしまったのだ。
僕は、背中が曲がり、覚束ない手で床の毛を掃いている彼を見て、正直初めは掃除専用に雇われた人かなと思った位である。
その彼が僕に向かい「次の方どうぞ」と口を開いたのだ。

「はい?」と僕。
「次の方どうぞ」
「あ、はい」
…次の方どうぞ、って、こっ…この人が僕の髪を切るのだろうか。
外見の頼り無さから予想し、にわかに心配が心に広がってくる。
僕は動揺を押さえながらも案内された席へ向かう。

いやまだ結論を出すのは早い。
彼の口から発せられた「次の方どうぞ」は、彼が客の接待も兼ねている掃除人という立場の元で発せられた言葉という可能性だってあるのだから、僕の髪をこの人が切ると結論付けるのは早急ではないか、うん、それはそうだ等と考えを巡らしていると、老人は僕に理髪用のケープを纏わせながら「どの位の長さにしましょう」と僕の希望を打ち砕く。

「はい?」
「どの位の長さにしましょう」
「ああ、ええと…ベリーショートに…っても判らないかな…5cm位の長さに」

…い、いや、まだ判らない、ケープを纏わせ、切る髪の長さを聴くところまでが彼の仕事なのかも知れぬのだからと今だに往生際の悪い僕。そんな僕をあざ笑うかの様に、老理髪師は切り易くするべく僕の髪に水を噴霧し始めた。
99パーセント確定!

…い、いや、まだ、まだ判らない、水を髪に噴霧するまでが彼の仕事であって、つまり、その、ええと、「チョキチョキ」-そうチョキチョキ-

もう切っとんのかい!

-というわけで、僕は彼に散髪されることになったのであった。

それでも尚、この歳まで理髪師としてやっているという事は、彼はかなりの達人で、見た目はヨロヨロしていてもいざハサミを持つと、水を得た魚のごとき手さばき披露してくれるのかとも思ったのだが、よく見ると手が微妙に震えている。
ゾッとする僕。
しかもちょっと切る度に「この位でいいですか」を繰り返す。
その声が、香の物を咀嚼しいてる最中に小声で喋られている様で、小さく途切れ途切れなものだから実に聞き取りにくい。
「この位でいいですか」
こう何回も聞かれると、いやでも彼の歳を意識せずにはいられなくなってくる。
度重なる同じ質問の裏には、年令に起因する問題が隠れているのではと疑いたくなる。
震える手が耳の周りを切り揃える段階になると僕はもう生きた心地がしなかった。

3つある席の真ん中に座っている僕。
両隣りの客はどんどん入れ代わっていく。
小学生の頃、給食を食べるのが遅くて残された時に感じた情けなさに似た感覚が僕を襲う。

普段は理髪されていると眠気を催すのだが今日はそういう事は全くない。
ヒゲは当たらずともよいと何度か念を押す。
そりゃあ命に関わる事だから何度でも念は押すさ。
あの震える手がカミソリを持ち僕の喉元を右往左往するのを想像すると、ケープのまま走って逃げ出したくなる。

そして45分後-

ついに理髪が完了した。
出来上がり自体は悪くはない。
しかし僕は体に力が入っていたのか精神はもちろん肉体もへとへとになってしまっていた。

ゴニョゴニョゴニョと彼。
想像するに、恐らく「お疲れさま」の意。

財布を取り出し、レジへ向かう。
すると会計を済ませている最中に新しい客が来た。
僕の後ろで「次の方どうぞ」と例の声。

新しい客もどうやら一見さんらしい。

戸惑う彼の表情を見て、帰り道、僕は彼の無事を願わずにはいられなかった。


2001.11.18

漫画の書き文字を見てもらえば判るのだが、僕は字が下手である。
漫画は「オリジナリティーのある絵柄」という言い訳が成立するものの、字の方はオリジナリティーというのは「癖のある字」ということで片付けられてしまい、一般的にあまり褒められはしない。

今回僕が静岡に戻ってきたのは、母が、嗜んでいる書が認められ、ボジョレーヌーボー(ワインの新酒)のラベルに採用される事になったため、それを記念してパーティーを開いてもらえる事になったので参加せよとの連絡を受けたためである。
字の下手な僕にとっては当てつけのごとき催しではあるが、身内としては仕方がない、まあ、ボジョレーヌーボーということで、酒絡みなのは確かなので、それを楽しみにして来たということも正直、あった。

ところが-
パーティーが始まってみると、身内ということで手伝いをしない訳にはいかず、式の最中はヴィデオ撮影に追われ、酒どころではなく、しかも数日前から恒例の扁桃を腫らしてしまい体調が戻らず、はなから飲める状態でもなかったのである。
結果、僕としては幸か不幸か、母の努力を純粋に祝う事になり、いい息子に終始したのであった。


2001.10.28

高校時代からの友人グループ。
彼等とバーベキューをする時は何故か必ず雨が降る。
そういえば以前、台風の中決行したため(一応高架橋の下でやったのだが)、鉄板に雨が溜まり、バーベキューだか鍋だか判らぬ料理となってしまった事もあった。

そして…今日も雨である。
10.28、秋も深まろうかという頃に、日帰りではあるがキャンプ場を借りてバーベキューをやろうというのだから、それはどうかと思われる人も居ようが、企画自体は夏からのもので、皆のスケジュールを調整した結果この日となった訳であり、僕らとしてもそれなりの理由はあるのである。

とにかく、バーベキュー場には屋根が付いているとの事なので、今回は鍋との区別に苦しむ事はないと判断し、雨天決行とあいなった。

場所は静岡の梅ケ島、車で静岡駅から1時間程のところである。
炭や鉄板などの設備は整っているとのことなので、食材を途中のスーパーで買う。
久しぶりに合う友人との間の微妙な感覚の錆び付きも、バーベキューから派生する狂牛病の話題等を潤滑油とし訳なく蘇る。

グループは僕を含め、いい加減な連中の集まりの様なもので、高校時代から現在もそれは変わっておらず、今回も案の定、何となく各々が目的地までの道順を知っている様な雰囲気を醸し出していたのにもかかわらず実際は誰も知らぬという始末ではあったのだが、幸いにもキャンプ地までは一本道だったため迷う事なく到着することができた。

僕らのいい加減さは、この後、雨と場所柄と季節から来る「寒さ」で、再び認識されるのであるが、友人の子供達の様子を見ると寒いと感じているのは大人だけのようで、まんざらこの企画は決して失敗ではなかった様に思った。

帰り、僕は静岡駅で皆と別れた。
駅近くのアートギャラリーにて、「印象派〜エコールドパリ展」を観るためだ。
閉館時間まであとわずか。
それでも足を運んだのは、最終日だったので今日を逃すともうチャンスはなかったからである。
モネ、セザンヌ、ゴッホ、モディリアーニ、シャガール等が展覧でき、バーベキューの疲労とアルコールの残りがあったものの、無理をして寄り道をした甲斐はあった。
目に見えぬ事ではあるが、これはある意味仕事でもあるし。

ギャラリーを出ると、雨の中を大勢の人が日の丸の旗をもって僕を出迎えてくれた-というのは間違いで、どうやら静岡を訪問中の天皇陛下が、閉館後に絵を御覧になるようで、彼等はその出迎えのようであった。(確認はしていないが、天皇陛下が現在静岡に滞在しているという事実と、観衆、警備、噂から判断)
嬉しそうな群集と、1日雨の中をバーベキューをしていた自分。

日本は平和だと感じた。


2001.10.26

静岡の家のFAX電話はハンドコピー仕様になっている。
本などの立体物をコピーしたい時には読み取る部分が外れて自由に動かす事ができるので重宝している。

「ハンドコピーをセットし直してください」
この電話器、ハンドコピーを使用した後、セッティングに不具合があるとわざわざ上記の警告を発し知らせてくれるのである。
なんとも親切である。

しかし老朽化により、最近はセッティングに不具合がないにも関わらず、「ハンドコピーをセットし直してください」と主張する様になった。
常時ではないのが救いでもあり、また厄介でもある。
何の脈略もなく急に主張するのである。

「さて飯でも喰おうか」
「ハンドコピーをセットし直してください」

「戸締まりよし、元栓よし、あとは…」
「ハンドコピーをセットし直してください」

「今日は隙だから何をしようか」
「ハンドコピーをセットし直してください」

常時では煩くて仕様がないが、脈略もなく急に主張されるのも心臓に悪い。
この前など、丑三つ時にトイレに行こうとして電話の設置してある廊下を通る際に主張を始めるものだから飛び上がるくらいに驚いた。危うくトイレに到達する前に用を足すところであった。

このままでは、いずれ家の誰かが電話に殺されかねぬと冗談抜きで危機感を抱く僕。

直ちに家族会儀を開く。
僕「手後れになっては遅いのだ」
A「でも、なんかの拍子に直るかも知れないし…」
B「他に悪いところがないから買い替えなくても…」
僕「では現状のままでいいのだな」
A「直らないかもしれないし…」
僕「では一体どうすればいいのだ!」
電話器「ハンドコピーをセットし直してください」

僕、A、B「・・・・・・・・・・」

家族会儀にまで口を挟まれててはもう堪忍ならないので、くぼた家では電話を買い替える事にした。


2001.10.24

魚である。
最近肉は色々と騒がしいから、と言う理由ではない。

恐らくその主な理由は、僕という人間の経年変化によるもの、というのが、我事ながら有力ではないかと推測する。
ものの本によると、ストレスのない状態において、自身が要求する食べ物、美味しいと思う食べ物こそ、今その人の体に必要な食べ物であるという。
つまり、僕の体は肉の栄養素よりも、魚の栄養素が必要だという事なのだ。
魚の栄養素というのは、血を綺麗にする、粘膜や血管を丈夫にする、コレステロール値を下げるなど体調の維持に役立つ物が多い。維持である。それを欲する僕の体は、「成長」ではなく「維持」が必要な段階に入ったということだ。
要は歳をとったという事である。

魚である。
それに加え、僕の現在の生活も要因にあると思う。
僕は、魚に恵まれた環境と恵まれない環境の両方に身をおいている。
港の近い田舎と、一人暮らしの仕事場。
物価の違いもあるが、自炊をしている仕事場では、魚料理におけるリスク(匂いとゴミ)が僕のバイタリティーを失わせ、その結果、魚から遠ざかってしまうのである。(と、恵まれない環境というのは自業自得でもあるのだが)
僕が頻繁に田舎と仕事場を行き来する事でその対比が継続的に意識されるため、魚に対する価値観に変化をもたらしたのではないだろうか。

とにかく、僕はここ最近、肉よりも魚の方が好みになったのである。

横にいる猫も頷いている。






*そういえば、僕は何故猫は魚が好物なのか、疑問でしょうがない。猫の祖先は元々森の住人であるし(余談ではあるが、排泄物に砂をかける行為は、森という、雨風の影響をあまり受けない環境で生活していた猫が、敵から自分が存在するという証拠[匂い]を消すために産み出した知恵だそう)水を嫌う猫の性分から、あまり魚との接点が見出せないのだが。
上の僕の理屈ではないが、たまたま魚に、猫が必要な栄養素が多く含まれていたという結果論的な理由で好物となったのであろうか?


2001.10.18

電車が駅に止まった。
人が乗り込んできてあっという間に満員になったようだ。
席でうとうとしていた僕の左横にも誰か座ったようである。
眠気に下がった頭ををそのままにして薄目を開け、眼球を少し左に動かしてみる。
すると目に飛び込んできたのはかなり大きなスニーカー。
再び目を閉じて考える。

スニーカーの大きさからすれば、男だ。
スニーカ-の見える位置は僕の膝のあたりだ。しかもスニーカーは左足で靴底がこちらを向いていた。
という事は、隣に座った男は自身の右足に左足を乗せていると予想が立つ。この満員電車の中でだ。

再び薄目を開けてみる。
やはりそうだ。靴の裏はしっかりと僕の膝の方を向いている。

再び目を閉じて考えてみる。
満員で隣りとの距離は近い。
このまま何かの弾みで電車が大きく揺れた場合、僕の膝が彼の靴底に接触する可能性は非常に高いと思われる。

スニーカーを履き、電車に乗る位なのだから、彼は生まれた時から今日まで、情報が遮断された山奥で育った訳でではなく文明社会の元で暮らしていたのは明らかで、そう考えると、彼の靴の裏が僕のズボンの膝に接触し、ズボンが汚れた場合、それがどういう意味を持つかという事を彼が判らない訳はない。

結論がでた。

満員電車で足を組み、人の膝を危険にさらすこの男は社会人失格である。
それこそ、そのスニーカーを脱ぎ、情報の遮断された山奥を裸足で駆け回っているのが相応しい人間である。

等と考えたら何やらムカムカとしてきた。
その足を下げやがれ!とでもいってやろうか。

再び目を開け、僕の体内の活性酸素の増加を企むこの男の顔を見てやろうとアタマを徐々に起こしていく。

すると組んでいる彼の左手の二の腕が見えてきた。

凄い太さである。
着ているトレーナーの上からでもその筋肉が判る。
と同時に、もしこの男と口論となりエスカレートしていくと、最終的には彼の腕っぷしの強さまで知る事になることも判った。

再び目を閉じ頭を下げていく。

僕の感情を彼に伝えるのは得策とは言えまい。
ズボンだけでなく、シャツも自分の血で汚す事に成りかねぬ。
結局僕は彼を怒鳴り付ける事は止め、こんな彼の行く末を悪意を持って心配するにとどめたのであった。

しかし少しばかりの自責の念が湧いてきた。
暴力を恐れ言いたい事を言わないお前は負け犬だ。
ふがいなさに気分が落ち込んでくる。

等と思っていると、駅に到着。
隣の男が席を立った。
この時初めて彼の顔を見る。
175cmの僕が威圧感を感じる程背の高い黒人の人でした。

そうと判ったと同時に、とたんにバイタリティーの復活する僕。

なあああんだああ。外国の人じゃあいくら怒鳴り付けても日本語じゃ何言ってるか判りゃしないしないよなあ、言うだけ損するところだった。言いたい事が伝わらないんじゃあ、しょうがないしょうがない、はっはっはっはっはっはっ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はあぁ・・・・・空しい。


20011015

鯛焼きをかじりながら僕は思う。
鯛焼き、
それは『カリスマ性』がある故に、淘汰されずに二十一世紀まで生き残った食べ物なのだと。

競争社会の上に成り立っているこの世の中では、例えば、ほぼ同じ性能の車が二台販売されていれば、僅かな差であっても性能のいい方が売れ、悪い方が消えていくのが摂理である。

ところで鯛焼きには大判焼というライバルが存在する。
鯛焼きと大判焼は、共にあんこと小麦粉の生地で形成された焼菓子で値段も殆ど同じと共通点が非常に多い。
とすると、使用する材料が同じならば少しでも製品として完成度の高い方が残り、もう一方は淘汰されて当然ではないか。

似ている二つの違う点。
直ぐに認識できる鯛焼きと大判焼の違いは形状である。
鯛焼きは、その名の通り、鯛の形をしており、大判焼は円柱と、その形状においては両者は大きく異なる。
興味を引くという点からすれば、鯛焼きの形の方が、無機質な円柱の大判焼よりも優れていると言える。

しかし製品の完成度という点からすれば、大判焼の方が多くの点において優れているのである。
しかも皮肉な事に鯛焼きの劣る点は、全てその形状が原因となっているのだ。

・大判焼の円柱というのは非常に安定した形状で、故に焼き上げる際に熱の伝わり方も均一で、出来上がった商品間の個体差が少ない。結果、どの大判焼を選んでも失敗がない。
餡も常に中心にあり、どこから口を付けても餡に達する距離は一定である。
しかし鯛焼きはそのアンシンメトリーな形状が災いし、熱の伝わり方が一つの個体の中でも部位によって違いが生じ、焼き斑が出来やすい。
餡の位置も流動的となりやすく、いくら生地の部分をかじっても、なかなか餡まで達しないという個体もしばしば見受けられる。

・また二人で一つのものを分けて食べる状況になった場合、大判焼は非常に二等分にしやすいが、鯛焼きを正確に二等分する事はその形状から不可能である。

・生産性という点においても大判焼は鯛焼きを上回っている。
同じ面積の金属板に両者の焼き型を取る事を考えた場合、円柱の大判焼は形に無駄がないため効率良く多くの焼き型を取る事ができるのだが、鯛焼きは無駄の出やすい形で大判焼程の焼き型を取るのは不可能である。故に同じ面積でもより多くの焼き型を取れる大判焼の方が一度に多く焼く事ができ生産性が高いというわけだ。

・焼き型の元となる型を創る事を考えても、鯛の型を創るのは、円柱を創るより、遥かに時間がかかりそうである。

形状以外に大判焼より優れた点がない鯛焼き。では何故淘汰されずに現代まで残ったのか。

僕は最初に鯛焼きの持つカリスマ性がその原因だと述べた。
カリスマ性、人を惹き付ける魅力あるもの。
人間の場合、カリスマ性のある人というのは、ただ才能があるというだけではなく、普通ではマイナスとなりうる素養がその人の魅力になっている事が殆どである。
カリスマ性があるといわれている人々、長嶋やアントニオ猪木の少し的外れな発言も彼等の魅力になっているし、マイケルジャクソンの怪し気なプライベートも、プリンスの容姿等も、良くも悪くも彼等への興味という点において、魅力となっている。

では鯛焼きにおけるカリスマ性とは何なのか。
カリスマのある人の定義に鯛焼きを当てはめてみると、鯛焼きのマイナス面が鯛焼きの魅力、カリスマ性を高めているということになる。

つまり前文で挙げた鯛焼きのマイナス面こそ鯛焼きの魅力なのである。

・確かに鯛焼きの形には安定性がないが、それ故食べる際、例えば頭から食べるかしっぽから食べるかという戦略性、娯楽性が生まれる。

・また個体差が激しい故、そこにギャンブル性が生まれる。自分の買った鯛焼きの出来はどうか、尻尾まで餡が入っているか、焼き加減はどうかというワクワク感を感じる事が出来る。
・同様に、人と一つの鯛焼きを分ける事になった時もうまく分けられない故の緊張感、どちらを取るのが有利かというギャンブル感を味わえる事ができる。

製品の完成度の高さ故に大判焼が持つ事ができない魅力。
抑揚のない日常に、僅かながらも、「もめ事」や、「娯楽性」、「スリル」といった感情の起伏を産み出す鯛焼き、そのワルな魅力こそが鯛焼きのカリスマ性の要素であり、鯛焼きが今日まで生き延びてきた理由なのである。

-それにしても、なかなか餡が出てこないなあ、この鯛焼き。


2001.10.12

8.17のつづき
前回、日米開戦などと書いたのだが、アメリカは別のところと戦争になってしまったので(他人事でもないのだが)この切り口で話を進めるのは中止。

靴の件は、傷のあった部分をデジカメに撮り、英語で説明文を作成。
実はこのアメリカへのオーダーでのトラブルは2回目で(以前のtalks7.24参照)前回、自分の英語力の脆弱さを知ったため、今回は英語の出来る高校時代の同級生の友達に、僕の説明文を添削してもらい万全を期してメールを送ったのである。

結果は送料分の割り引きという事になったのだが、僕の怒りは納まった様なのでそれでよしとした。

で、先日、晴れてその靴を下ろしたのである。
まだ馴れていないというのに足が痛くならないのは流石オーダーである。
問題の内側の踵部分の傷も、急所は外したという感じで、摩擦による傷の拡大は心配無さそうで一安心。
その日に蜜柑の皮を踏んでしまい、靴底が爽やかな香りになってしまったりもしたのだが、まずまずの試し履きではあった。
めでたしめでたし。

ところで、一つの事でも突き詰めると色々な事に繋がっていくものだという事をここ最近改めて実感している。
というのは、靴を趣味としている僕は、世界で起こっている色々な事件に関する情報を靴を通してこの何ヵ月で知ったからである。

・以前にもここで書いた口蹄疫という家畜の病気で、材料の革の供給に影響が出た事。

・それに加え狂牛病の影響で良質な皮革が更に減り、その結果靴の値段が上がるメーカーが出てきた事

・テロで心配されている炭疽菌も実は家畜が病気になるウイルスで、普通人に感染する場合、主に精肉関係、皮革を扱う職業の人が多いという事。

・海外から輸入する際、物により関税がかかる。特に靴の関税は高いのだが、個人輸入の場合チェック逃れで関税を払わないで済む事がある。(自己申告するのが筋ではあろうが靴に限らずする人はそういまい)しかし現在はテロの影響で輸入品の検品が厳しく、関税ヒット率が上がっているというウワサ。(これは未確認情報)

シリアスなテーマになったのでオチはナシ。


2001.08.17

今の時代、素足での外出は難儀故、その際には布やナイロンや革等にクッションを付けた物で、足が直接地面に触れない様に覆うのが常識となっている。

僕は外出の際は、特に革で足を覆うのが好きで、趣味としてその「革で出来た足ガード」を集めたりもしている。
今年の正月には好きが講じて、なんと足ガードの制作を、アメリカのメーカーに依頼した。

その足ガードが遂に完成して、サンフランシスコより海を超えて僕の手元へ届いた。
当初は制作に2,3ヵ月を要すると言うアメリカ人の主張だったのだが、結局は8ヵ月待たされた。
その間には、向こうなりのトラブルがあったようだが、それにしても英語を駆使する彼等はLOOSEに思えて仕方がない。

届いた足ガードを装着してみる。
僕の注文通りのデティールで問題はなく、特注故、唯一無二の一足が出来た訳であり、待った甲斐があったと言うものである-

が、ふと見ると左足用の足ガードの内側の踵部分に傷が。
踵からアキレス腱方向に入った3センチ程の引っ掻き傷である。

一般的に足ガードを製作する際には、革を足形に整形する必要があるのだが、だからといってそれが出来るまで依頼者が自分の足を提供するわけではない。
第一僕の場合、アメリカに出向く時間などないし、ならばと足首を切り、足だけアメリカに向かわせたとしても、今度は足ガードが出来上がってきても履かせる足がない訳で意味がない。

ならばどうするかというと、制作の際には足の代わりに木を足型に削ったものを代用するのである。

恐らく、僕の靴に付いた傷はこの木型を抜く際に出来たものと思われる。

興味のない人には、たかが足を守る為の物に傷があったところでなんだと言うのかと思われるかも知れないが、当事者としては、これは侮辱に等しい。
足ガード等使用していれば傷が付くではないか。
確かにそうだが、自分が履いて出来た傷は、いわば歴史の産物であり、意味合いが違うのである。

こちらに被のない事、これは抗議せねば気が済まぬ。

ふつふつと沸き上がる怒りと焦燥感の中、僕は立ち上がった。

しかし、相手は裁判の国アメリカのツワモノ、こちとらNOと言えない日本人。

果たして僕に勝機はあるのか!

-次回日米開戦。


2001.08.14

二日酔いの朝、喉の乾きで目が覚める。
アタマが痛い。
9時28分。
起きると家には僕一人。
台所の流しには煮出したばかりの麦茶が耐熱のピッチャーに入っていた。
喉を潤すにはちょうどいい。

しかし麦茶はまだ触れない程の熱さだった。

すると家の者はついさっき出かけたばかりだな、とへたな刑事ドラマの推理みたいな事を、まだはっきりしない頭が勝手に考える。

氷で冷やして飲むか。
デュラレックスというフランス製のコップ(といっても数百円のものだが)を片手に冷凍庫を開ける。

製氷室には4.5個の氷が転がっているだけだった。
調べてみると氷を作る水のタンクは空。
夏は氷を大量に消費するんだから、絶えずチェックしろよなああ、と誰もいない台所で口が勝手に悪態を付く。

4.5欠片の氷の冷却力では、触れない程熱い麦茶を冷やし切るのは無理だと分ってはいるものの、それでも二日酔いの、のぼせた体を少しでも冷やしたいという気持ちが強く、氷の入った耐熱コップに麦茶を注ぐ。
案の定、氷は見る見るうちに小さくなってゆく。
眺めていると、何か気持ちが焦り、氷が溶ける前に麦茶を飲んでしまおうと急いで口を付け、ごくごくとやる。
最初、氷の効力がほとんど感じられなかったのだが、それでも麦茶の残りが一口程になると、その健気な冷却力が認められ、口に一時の清涼感が訪れる。

僕は貪欲に、大豆程になってしまった氷を口に放り込み、冷たさを味わおうとするのだが、これまたあっという間に溶けて消え去ってしまった。
なんだか自分だけ取り残された様な寂しい気持ちになる。
それでも、酒を分解するために使われた体の水分の補給を果たし、体中がじんわりとして良い心地だ。
どろどろだった血液がスムースにながれ始めた様な感じがする。

時間が経ち、頭がすっきりとしてくると、何やら膝が痛いのに気が付いた。
手にも若干怪我をしている。
昨晩、手はぶつけたのは憶えているが、足のほうは一体いつやったのか。

二日酔いの朝。
まあ、たまにはいいではないか。

盆なのだし。
そうか、膝が痛いのは昨夜の盆踊りに原因があるに違いあるまい。

-と、苦笑いをする8月14日。


2001.8.01

怪談ではありませんが、僕の実体験に基づく、ある意味恐い話を一つ。

散歩がてらに電車に乗り、知らない町で下車。
そして何となく入ったデパート。
その時、僕はそこに、人を不安にさせる空気が漂っているのを感じた。

初めて見るデパートだった。
そのデパートは5,6階だてだろうか、昔は有名デパートだったが、(ジャスコ、ダイエー、長崎屋の様な「スーパーマーケット」の香りのするデパート)その撤退後、何処かの無名企業が資本投資したか、あるいは有名デパートの撤退で街が寂れるのに危機感を持った地元が協力し合って営業を続けている、といったイメージを抱かせる概観をしていた。

まずデパートに入ってすぐに感じたのは温度だった。
8月1日。
店内は、エアコンが効いていない訳ではない、暑い訳ではないのだが、微妙な温度。
この時期、炎天下からデパートに入った時の、「あ-、エアコンが効いてて気持ちいい-」といった感想はまず産まれてはこない温度である。

人は、常識を基準に物を考え、そしてそれから外れた事に対し不安に感じるものだ。
このデパートの温度は常識的なデパートのそれとは微妙だが違っている。

店内を見渡すと結構な広さがあるが、客は2人しかいなかった。
一人は根元が既に黒い茶髪の長髪をゴムで束ね、少し色褪せた黒のTシャツに、膝丈の淡いブルーのジーンズ、青とオレンジのビーチサンダルといった服装の、小太りで小柄の女性。歳は25位か、にきびがあるのでもっと若いのかも知れない。気の強そうな顔をしている。
もう一人は、営業マン風、ひょろっとした170センチくらいの眼鏡の男性。坊主頭に青白い顔とライトグレイのスーツが不釣り合いに見える。

そんな2人が買い物をしているデパートの1階は、化粧品と靴、バック等が置いてあり、そしてなぜか酒類が置いてあった。
なぜ酒類がこんなところに。
冷蔵装置が置かれた酒コーナーは他の商品と比較すると、その存在があまりにアンバランスに感じる。

またもや常識から外れている。

一体2階以降はどうなっているのだろう。
僕の好奇心は、この時より未知への興味から恐いもの見たさに意味合いが変わっていった。
エスカレーターを使い2階へ。手すりのベルトは恐らく昔は濃い赤だったのだろう、ゴムはひび割れ、黒ずみ、触るとざらざらとしていた。

2階に到着。
そこは食料品売り場だった。
野菜や肉、魚といった生鮮食料品いわゆる「水物」ではなく、羊羹や、おかき、マグロの角煮のつくだ煮といった類いのものがおかれている。

普通どこのデパートでもこういった食料品は1階で売られている物ではないのか。何故2階なのか。
そんな事を考えていると御歳暮コーナーとして置かれていたハムもハムではない様な気がしてくる。

疑問を残しつつも3階へ。
ふと目をやると、下りと上りのエスカレターの間には斑点の様に黒いゴミがびっしりとこびりついている。
思わずブルブルっと寒気が走る僕。

3階、洋品売り場。
洋品といってもほとんどが肌着類だ。買い替えるサイクルの早い肌着類は一番の売れ筋なのだろう。
他には着物の柄の様なプリントの男物か女物か解らない開襟シャツ、初めて見るメーカーのジーンズ等がおいてあるだけだ。

軽快にエレクトリックピアノで奏でられているビートルズのインストゥルメンタルのBGMが、お婆さんの客一人の空間に響く。

4階。
僕は最初に、このデパートは5,6階の建物だと言ったが、営業の方はこの階までで、5階に上がるエスカレ-ターは停止しており、工事現場で使うオレンジと黒の縞の物体(ハードルの様な形態の物だが正式名称が解らない)で塞がれていた。
(5,6階というアバウトな表現を使ったのは、4階以降に上がれなかったため、この文を書くために後から、概観から想像したからだった。)

4階はゲームコーナーだった。
この階は紅白の幕で半分に仕切られておりゲーム機器はエスカレーターのある方の広場に、そして幕で仕切られた向こう側は、立ち入り禁止となっていた。
紅白幕と天井の間は50cm程あいていて、向こう側の電気が消えているのが解る。
その闇に、ゲーム機器の置いてある電灯の光までもが吸い込まれている感があり、ゲームコーナー全体も薄暗い。
幕の向こうの広い空間が何か気になり落ち着かない。
暗闇の先にある漠然とした恐怖。
紅白の幕で、少しでもその空間に華やかさを添えようとしているのだろうが、その効果は皆無だ。
その効果を狙っている意図が伝わるため、逆に恐怖感が増す。

僕が子供だったら、恐くてこのゲームコーナーに一人では来る事はできないだろう。

ここには客が3人居た。
子供とその子供をバスの乗り物で遊ばせているお母さんと、老人。
老人はどうやら親子とは関係ないらしく、パイプ椅子に座り眠っていた。
僕は、老人がここでこうやって眠る事は、自分の子供の家族との毎日の生活をうまくやっていくために身に付けた彼なりの知恵なのだろうかと思った。
身に着けている緑のジャージが少し短く、その結果、バレリーナが履く様なシンプルな白いスニーカーが露出しているのが印象的だ。

・・・このデパート、じきに潰れるな。
自然に沸き上がってきた僕の感想。

わかった。
僕がこのデパートに感じていた不安、他のデパートと比較して常識と懸け離れている点。
それはこのデパートの、客に対するデリカシーのなさだ。
掃除が行き届いてない、エアコンも効いていない、薄暗い、工事用の物が目に触れる処にある。
これらすべてが潜在的な不安感に繋がっているのだ。
状況を考えると、すべては経営難による人員削減等が産み出した悪循環だと思うが、この状態なら営業しない方がいいのではないか。
感性の強い子供が迷子になったらトラウマが残る様なデパートなど、ある意味罪ではないのか。

デパートを後にする僕。
外に出て僕はある事に気が付いた。
このデパート、2階にも入り口があった形跡があるのだ。
恐らく昔は駅から歩道橋の様な物で繋がっていたのであろう。
とすると、2階が食料品売り場だったのは、昔は2階が実質1階の役割を果たしていたためで、その名残りか。
すると1階は昔は生鮮食料品売り場で、酒はその時の名残りで、化粧品等のコーナーは、後からテナントとしてはいったのではないか。
状況からするに、僕のこの推理は正解なのだろう。

電車で帰路に着く僕。
負の空気が漂うあの空間に自分のバイタリティーが奪われてしまった様で疲労感を感じる。

「また来てね」
4階のゲームコーナーの下りエスカレーターの正面に貼ってあった黄色の紙に書かれた筆文字を思い出し、電車のドアに寄り掛かっている僕は、思わず苦笑いをした。


2001.7.24

今年の1月に海外へ、趣味である靴をオーダーしたのだが、今だ送られて来る気配がない。
これは遅いのではないかと勘付いた僕。
通常は、3〜4週間で完成するというものが既に半年以上過ぎているので、まあ勘付かない方が可笑しいのだが、とにかく僕は、黙っておればいい気になりおって、鍋物をつつきビールを飲んでいた頃に注文した物が、枝豆を頬張りビールを飲んでいる今まだ送られてこないとはどういう事なのか、例え「結局はいつもビールを飲んでいるんですね」等と突っ込みを入れられようとも、笑って許す訳にはいかぬとばかり、「怒りの問い合わせメール」の制作にとりかかった。

とはいうものの、英語力が学生時代より悪い意味でエージングが進んでしまっているものだから、横文字で自分の怒りを表現しつつ、主旨を伝えるなど一体どうすれば良いのか、それプラス、己の見栄を満足させるべく、抗議文に大人の紳士的な雰囲気も醸し出したい等と考えるものだから、事態はより複雑となり、僕は落ち着きを失い、立ったり座ったり部屋をうろうろしたりして、パソコンのキーボードに静寂を宿らせる始末。

時間が経つにつれ、怒りの感情よりも、何でもいいからどうなっているかだけ取りあえず解ればいいや、という気持ちが上回り、再び気を取り直しパソコンに向かう。
かくして出来上がったメールは、日本語に訳せば小学生級の文体となってしまったのであった。
怒りに動かされてメール制作に乗り出したのに、(Dear〜・親愛なる〜)から文が始まっているのだから、自分でいうのもなんだが、負け犬野郎である。

とにかく、この負け犬メールを送ってから数日後、注文先の靴メーカーより返事が来た。
遅れて済まぬという謝罪の言葉。
遅れている理由としては、ヨーロッパ等でまん延している牛等のほ乳類がかかると死に至る恐ろしい伝染病、口締疫の影響で、皮革の納入が安定していない事が要因にあるようだ。(はっきりそうだとはいってないが文面から推測)

理由としては同情さえするが、それはそれ、ならばそういう理由で遅れていますと先にメールをよこすのが筋ではないのか。

またその主張を靴のメーカーに伝えようかとも思ったのだが、所詮は負け犬メールなので、メールを送らぬ方の「負け犬」を選択する事にしたのであった。


2001.5.29

飼い猫の「だい」は月に1度位の割合いで、舌を出し、ゲホリゲホリと空咳をする。

空咳の主な原因は猫の習性である「毛繕い」にある。

毛繕いというのは、猫が自分の体を清潔に保つために体を舐める行為の事だが、その際に抜けた毛を飲み込み、それが胃や食道で溜まり、やがて毛玉となって粘膜を刺激するため空咳が出るのである。

だが毛繕いは猫一般の習性なので、空咳はウチの猫に限った事ではない。
では空咳を解消するために他の猫はどうしているのか。

野良猫の場合はこれを解消すべく、雑草をむしゃむしゃとやるらしい。
草に含まれる食物繊維が消化器の掃除をし、便と一緒に毛玉を排出させてくれるのである。
草を食べるは、もともと猫に備わった知恵。

だが不幸な事に、だいは「家猫」故、外に出る事がなく、また僕の家は、新築ではないものの、雑草が生える程に朽ちてはいないので、彼は「緑」に遭遇する機会には恵まれていないのである。

それならばどうするかと言えば、実はペットショップに、モルトと言って、雑草と同じ効用のある食物繊維が含まれている、茶褐色のヌガーのようなペーストが、歯磨き粉の様なチューブに入って販売されており(正式名称はモルトではないのかも知れないが、とにかく家ではそう呼んでいる)彼はその世話になっているのである。

しかし、このモルト、独特の匂いがあり、例えるならそれはまるで、

製紙工場に積まれたチップの匂いの様であり、
またカラメルのかかったクッキーのようであり、
とにかくウチの「毛だらけ」は苦手な様である。

そのままではまずモルトを口にしようとはしない。

仕方ないので僕はいつもの行動に出る。

彼の前足にモルトの「ペースト状」の利点を生かし、べたり、とやる。
飼い猫は、思い切り足をぶるぶるとさせ、部屋中を駆け回り、それを振り落とそうとするが、この「ペースト状」は彼の努力を凌駕する粘着力で、最終的に彼は、仕方なくモルトで汚れたその足の毛繕いを始める。

つまり普通では口にしないモルトを毛繕いの習性を利用して舐めさせるのである。

空咳の原因となる毛繕いが、それを直す際の手段となるとは、人生の皮肉が垣間見えた様なものであるが、とにかくこれで飼い猫の容態は、快方にむかう事であろう。

モルトをやった後は、虐められたとでも思うのか、暫くは僕によそよそしい態度をとる「だい」。

そう言えばこの毛むくじゃら、今ではこのモルトの匂いを嗅いだだけで、前足を振る様になった。

もう少し早く産まれていれば、僕らは、「パブロフの犬」ならぬ、「くぼたの猫」として世間に知れたかも知れぬのになあ、相棒、と声をかけるが、未だよそよそしい「だい」は無視をした。


2001.5.18

予定の用事が急になくなり夕方までの4時間程暇となる。
家猫は昨夜に大活躍でもしたのか、深い眠りに落ちているようで、呼んでもぴくりともしない。
飼い主の特権をいかし、起こして暇つぶしの相手をさせようとも思ったのだが、ちょっと待て、彼は毎日の生活にプライバシーというものがなく、客や家人におもちゃにされてばかりいては、いくら食い扶持を世話になっているとはいえたまったものではあるまい、少なくとも僕だけは飯に見合うだけの奉公で許してやろうと思い、そっとしておく事にした。

外に出れば金がかかる、
ならば何か面白い事でも考えて暇つぶしとするか、
頭の中で考えるのに金はかからぬからこれは名案である。

よしそれでは今から始め!

う-ぬ、ふ-んと考えてみるが、
急にそれでは始めといわれても面白い事がすぐ浮かぶものではない。
何もないところから物事を立ち上げるのは非常に困難を極める。
自らの発案ではあるが、ここは抗議をせねば気が済まぬ。

そんな事を考えているうちに、ふと目の前を家蜘蛛が通り過ぎる。

蜘蛛か、そういえば蜘蛛は節足動物だな。
節足動物といえば蟹もそうだ。
蜘蛛と蟹は親戚なのだな。
そう考えると待てよ、もし家蜘蛛ならぬ家蟹がいたら恐いな。
押し入れを開けたら高足蟹あたりの、足を入れて1.5メートル近い大物が、ガサガサーッと出てきたら恐いな。
素早く逃げる高足蟹を、丸めた新聞ではたくも、その頑丈な甲羅には全く利き目がなく結局はTVの裏あたりに逃げ込まれる自分を想像するとなんだか可笑しくなってきた。
おお面白い事を考えられたではないか、等と思っていると後ろの方でガサガサーッと物音。

すわ高足蟹!?

と思ったが、勿論そんな訳はなく、
蜘蛛の足音を察知し、飛び起きた家猫だった。

彼は僕の横を素通りするや否や蜘蛛に自慢の猫正拳を繰り出している。

僕の呼び掛けに反応しなかったくせに、蜘蛛の足音に反応する神経の持ち主の家猫のプライバシーを果たして考えてやる必要があったのかと思案していると、家蜘蛛は害虫を食べる益虫だった事を思い出し、すぐさま猫の行動を止めにかかるも、時既に遅し。
家蜘蛛は、その比喩のごとく「虫の息」だった。

無理にでも猫に暇の相手をさせなかった僕の判断ミスが、結果的に益虫を殺してしまうという大惨事を起こしてしまった感は否めない。僕に意識を集中していれば猫は蜘蛛に気付かなかったかもしれぬし、蜘蛛の方も猫の気配をあらかじめ察知していれば、ノコノコと姿を現す事はなかったであろう。

目がすっかり覚め、獲物もいなくなった猫が僕に相手をせがんできても、もうこちらには暇つぶしをする気分等すっかり失せてしまっていた。
時間があるのならネタ出しでもやるか。

しかしあの蜘蛛が蟹だったら、猫正拳に等びくともしない処だが。

ティッシュペーパーで蜘蛛の死骸を取りゴミ箱に葬る。

これが蟹だったら、塩水で湯がき食するものを。


2001.4.30

知人の女史の買い物に付き合う。
僕は彼女の性格を了解しているので、今日の付き合いは企画の発足時点から甚だ楽しみであった。

彼女は、
瀬戸物屋の常連のような性格で、
雪山にて、雪崩れが起きるから小声で話す様にという主旨を、声を張り上げて伝達するような性格で、
水を汲みに行くのにざるを持って出るような性格で、
要するに、
そそっかしい、おっちょこちょい、世間でいうところの「それ」である。
その傾向は、緊張時に顕著であり、勝手知ったる我が家とはいかぬ街中での買い物は、その「おっちょこちょいぶり」が、いかんなく発揮される事が予想され、それを目の当たりにできるやもしれぬという点において、僕は楽しみなのである。

そして彼女は、やはり、僕の期待に応えてくれたのである。

彼女は、ある洋品店にて、自身の所有するグレーのジャケットにあわせるべく、ショッキングピンクのニットを選んだのだった。

そこまではよい。
もし僕が着るとしたら、ショッキングピンクは選ばぬが、それは男にはあまり縁のない色であるからであって、コーディネートからすれば、グレーとピンクはすこぶる相性のいい組み合わせである。
実際、僕は自身のHPを、何度もこの組み合わせでカラーリング、デザインした経験があるし、なんら反対する気はない。
グレーにショッキングピンクを合わせる事は賛成である。

問題の彼女のおっちょこちょいは、その後である。

彼女は、自分のサイズのニットの有無を訊ねようとしたところ、少なからず緊張した様で、
店員に面と向かって、

「すみません、ショッ(キ)ング(ピ)ンクの〜」というところを、
「すみません、ショッ(ピ)ング(キ)ングの〜」とやってしまったのだ。

ショッピングキングである。
日本語に訳せば「買い物王」である。

一体、買い物王がどうしたというのか。

どこの街にでもありそうな洋品店の店員という身なのに、買い物王について聞かれても、店の子も一体どう答えてよいものか悩むであろう事は明白である。
いや、それ以前に、この人は一体何を言っているのかと、質問の主旨自体を理解できぬかもしれぬ。
大体が早口なのである。何をそんなに慌てて喋らなければならぬのか、焦らねば失敗の度合いも少なくなる筈であるのに。

しかし幸いにも店員は、知り合いの発言を正確に聞き取る事ができなかったらしく、状況と言葉のニュアンスで、ショッキングピンクと理解したようで、その結果、話はスムーズに繋がったのであるが、聞き逃さなかった僕は、頭上に冠を頂き、扇状に開いた札束で扇ぐ「買い物王」の姿が頭に浮かんできてしまい、そのイメージを打ち消そうとすればする程、ディテールがはっきりとし、仕舞いには、彼の高笑いまでが聴こえてくる気までしてきて、その高笑いが、「一体何を買う事ができてそんなに嬉しいのか」と聞きたくなる程の底抜けなものだから、笑いを堪えるのに、ほとほと苦労したのである。

それから、
買い物が済み、とある喫茶店。
付き合ったお礼にコーヒーをおごってもらう。

僕は、これから「目の覚める桃色」を見る度に、買い物王の亡霊に悩まされるのかも知れぬと思いながら、テーブルに飛ばしてしまったコーヒーミルクをお絞りで拭く女史を観ていたのであった。


2001.4.28

川崎の仕事場の一階がパン屋になった。
僕が静岡に戻っている3週間程の間に出来ていたのだ。
まさか僕を驚かせるための仕業ではあるまいが、そうだとしたら効果はあった。

仕事場のマンションは、右には蕎麦屋があり、左にはせんべい屋が所在している。
故に、これで蕎麦や、パン屋、煎餅屋と並んだというわけである。

つまり、何が言いたいのかというと、蕎麦屋がごま油で天婦羅を揚げる匂いや、煎餅屋が煎餅を焼く匂いに、パン屋がパンを焼く匂いが加わり、僕の仕事場での生活は、増々香ばしい毎日となったという事なのだ。

因みにここの仕事場を借りて4年以上になるのだが、なぜか一度も蕎麦屋と煎餅屋にはお世話になった事がない。
かえって近すぎるのが原因に思うのだが、さて-

パンの焼ける匂いは、この難敵に足を運ばせる事ができるのか、我ながらこの先が楽しみである。


2001.4.17

ええと、何を言うのだったか。どうにも思い出せない。
まあ、そのうち思い出すだろう。
では、コラム

今日は、川崎に戻る前に、こちらでやらねばならぬ事、地元の銀行の手続き等をするために外に出た。
桜が散り、それに変わり、つつじが咲き始めた自宅近くの公園。
改めて思う、「僕は、なかなかに良い環境に恵まれて生活を送っているのではないか」等と。

「鼻」の御機嫌を伺いつつ、駅へと足を運ぶ。
花粉症の気がある僕。
しかし今日は、調子がよいようで、自身に憤りを感じずにすみそうな気配。
まったく、この時期の鼻水ときたら、一度溢れ出すと止りャしないのである。
「自分が自分で、どうしようもない」、などという言葉は、(鼻水)ではなく、(恋する気持ち)に使いたいものである。

そんなこんなで、駅に到着。
そうこうしていると、電車が到着。
30分程揺られていると、静岡に到着。

そう、用件を果たす先は静岡にあり。

銀行の用事を済ませ、スクリーントーンという、仕事の為の物を購入し、後、2、3の用をクリヤーし、コーヒーを飲みに喫茶店に入る。

休憩。

その間、あと果たさねばならぬ所用が2つ程あると腹の中で確認したりして、ここのマスターが「400円の価値がある」と言い張るコーヒーを胃に納めきるまでを過ごす。

残り2つの所用を済ますには、駅を挟んで、今居る喫茶店の反対方面へいかねばならない。

詐欺師の経営する店を出た僕は、取りあえず駅に向かう。

駅へ到着。

キオスクを通ると、習慣で毎日読んでいる夕刊のスポーツ新聞が出ていたので、買い求める。

なになに、
今日の競馬欄は、プロレス欄は、野球欄は・・・ぶつぶつぶつ・・・・

それから40分後-

僕は
自宅にいた。

2つの所用の事等忘れ、駅に着いたのでパブロフの犬のごとく切符を買い、そのまま電車に乗ってしまったのである。

まあ、新聞に意識を奪われていたといういいわけはあるのだが、それを考慮しても、残りの用を、家に着くまで気が付かなかったということは、呑気なものである。
だめだめ、こんなんじゃあ。
こういう性格は、なおさねばいかん、と反省。

あ、そういえば、冒頭で言いたかった事、思い出した。

「最近、物忘れが多くなった。」


2001.4.13

春も真只中な今日この頃、人間が春ならば、猫もやはり春の様であって、僕の家の外でも彼、彼女等がニャーニャーとその存在をアピールしているのである。

すると間もなく、我が家の中でもニャーニャーの声、勘では恐らくこの声は、僕を産んだ人ではあるまい、だいいち彼女は猫ではないのだからと思ったら、やはりその通りで、家で飼っている猫の「だい」の声であった。

猫にとって春は盛りの季節、子作りの季節であって、ニャーニャーは雄猫にとって、雌猫へのアピール、同性への威嚇なのである。

うちのだいは、以前に大病をしており、子供を作る能力はなく、その結果、完全に家猫となっていて外に出る事はないので、彼の外の猫への共鳴は、まるで意味のない事なのであるが、それでも尚夢中になり、普段は出さぬような声を絞り出し、右に左に、上に下に、生涯交わる事のない敵と恋人を相手に、行ったりきたりしているのを観ていると、滑稽であり、と同時に不憫で愛おしくなるのだが、僕の場合、そう感傷にひたってばかりは居られないのである。

なぜなら、僕にはアレルギー性鼻炎という現実があり、これは猫の毛にも悪い意味で有効であるので、家の中で暴れ回られると、たちまち鼻水が止まらなくなってしまうからなのである。

今日もそんな感じで1日が始まったため、家人がだいの活躍の「跡」を掃除をする間、僕は町の方へぶらりと目の保養に出る事にした。

しかし、僕のアレルギー性鼻炎は、当たり前のごとく花粉にも有効であり、家を出て間もなく、律儀な事に反応を始めたのであった。

格好よく言えば、「猫の毛」と「花粉」は、僕にとって「前門の狼、後門の虎」であり、別に格好よく言う必要はないのだが、この季節は家に居ようが外に居ようが同様なのである。

それでも、今日は花粉の飛散がそれほどでもないかもと外を選んだ僕の目測をあざ笑うかのように、鼻水が泉のごとく湧き出てきて、それはもう、「よく生産が追い付くなあ」と、我が事ながら変な感心をする程なのである。

町に溢れる刺激を目で拾い上げていても、内心では鼻をすすり上げるペースについてにばかりに気がいってしまい、ちっともそれに心が踊らず、これは家にいる方が、紙の心配をしないだけましと、帰宅を決意、家路に向かう。

家に到着。

玄関の横の部屋の窓越しの気配。

だいが「外敵」に目を光らせていた。


2001.4.08

(4.02、4.06のつづき)

まこと君は静岡で降りたかったのに、名古屋からのったひかり号は、新横浜まで止まらなかったのです。
しかも、きせるをした人を見つけるため、きっぷを見に、車掌さんが来たのです。

さあ、困りました。
まこと君は、静岡までのきっぷしか持っていません。
しかも、計画性がまったくないまこと君は、あまりお金ももって家を出なかったのです。
おさいふにはもう2000円くらいしかありません。これでは静岡から新横浜までの、乗りこしたぶんのきっぷは買えません。

まこと君は、カードはもっているので欲しい物があればそれで買えばいいや、と、大人ぶっていたのですが、はたして車内でカードできっぷが買えるのでしょうか。

車掌さんは、こくいっこくと迫ってきます。
まこと君は、わるい方へわるい方へ考えています。
「もし、車掌さんに、『きみはお金がないから、きせるをしようとしたね。』といわれたらどうしよう。」
「まわりの人にわらわれるだろうなあ。」

でも世の中はそんなわるい人ばかりではなかったのです。

-とうとうまこと君のところにやってきた車掌さん。

でも、

まことくんが「電車をまちがっちゃいました」といったら、
車掌さんは「じゃあ、おじさんが新横浜から折り返し帰れるようきっぷに書いといてあげよう、これを見れば、もどってくる電車の中で、車掌さんがきっぷを見に来てもおこられないよ。」
といってくれたのです。

びっくりしたまこと君。
すると、となりに座っていたおじさんが「この前ぼくも間違えたんだよ」、と言い、にっこり笑いました。

まこと君は、なんだか胸がじ-んとして悲しくないのに涙がでそうになりました。


まこと君が家の近くの駅についたのは、予定より4時間もあとでした。

でも
この頃には、

まこと君は、人のやさしさに胸を熱くしたことなどすっかり忘れ、
「けっさくけっさく、失敗のおかげで、これでまたネタがひとつできたぞ。」などといういいぐさをいって、残りの2000円で買えるだけビールを買いに、(これでは、のんだくれです)コンビニへとむかったのでした。

おしまい。


2001.4.06

(4.02の続き)

静岡と神奈川を行ったり来たりしているその男は、名古屋にいた。
そして静岡へ戻る為、新幹線に乗ったのだった。
行きと同じひかり号。
乗車率は100パーセントを超えていたが、席に付く事が出来た為、彼は少しばかりエキサイトしていた。

間もなく新幹線はホームを離れ、車内放送が流れた。
今日この地での出来事が、取り留めもなく彼のアタマを駆け巡る。
心地よい満足感に身を浸す。

ふと到着時間が気になった彼は、車内アナウンスを拾う事に神経を切り替えた。

その瞬間、
彼は、自分の耳を疑った。

「次の停車駅は、新・・・」

え、今なんて言ったんだ、よく聞き取れなかったけど、しん・・・・?。

穏やかだった彼のこころに突如として暗雲が立ちこめる。
まるで、熱湯に放り込んだ紅茶のTバッグから滲み出る「琥珀色のそれ」の様に。

不安が車内の電気掲示板に流れる文字に目を走らせる。

・・・次の停車駅は 新横浜・・・

彼は-
名古屋に一人で来たのは初めてだった。
ひかり号を使用した事も、殆ど初めてだった。
行きは静岡から、ひかり号に乗ったのだ。

そう、
昭和42年生まれのこの男は、、ひかり号が、必ずしも静岡に止まらない事を知らなかったのだ。

彼は突然周りの乗客が、全く別の生き物の様に感じた。
未だ流れている車内放送も、この世の言語とは思えなかった。

あまり付き合いのない人の家へ上がってしまったような居心地の悪い空気の中、今の自分の気持ちをどう処理していいのか、痺れた頭で考える。

今日という1日が、全て馬鹿馬鹿しい事の様に思えてくる。
慣れない事をするからさ。

仕事場がある川崎へ帰る際の、新富士、新横浜間という、知った距離を戻らなければならないという事実が、不注意な自分を尚更落ち込ませる。

慣れない事をするからさ。

慣れない事をするからさ-まるで自分を他人事の様に扱う事で、気持ちを落ち着かせようとするその男。

しかし、残酷な現実は、そんな彼を許そうとはしなかった。

自動ドアが開き、車掌が自分の仕事を果すべく現れた。

「切符を拝見します」

つづく。


2001.4.02

そうだ、名古屋へ行こう。

朝の10時半。

出かけるには少し遅いが、思い立ったが吉日、とばかりに電車に乗り込む。

思い立ったが、というだけあって、名古屋へは義務で行くわけではない。
ここ数年、名古屋が何となく気になっており、その気持ちが飽和状態を超えてしまったと言うのが雰囲気的に近い気がする。
とにかく僕は静岡より、新幹線「ひかり」に乗り込んだのだった。

席を確保した僕は、購入したものの今まで何となく読む気の起こらなかった本をカバンより取り出す。

退屈を埋める為の手段の選択肢が極めて少ない車内は、こういった本を読み始める「きっかけ」の為にあるのだと最近思っている。

本を読んでいるうちに70分程で名古屋に到着。
特に目的のない旅故、気持ちに高揚もストレスもなく、結果、本に集中ができ、到着が早く感じた。
時刻は2時を回ったところ。

さて着いてみて、何をしようかと考えるが特に思い浮かばない。

ぶらぶらする。
地下鉄に乗り、取りあえず知っている駅を回ってみようか等と思い付く。


その間、「名古屋城を訪れる」という、王道がふと頭に過るが、本当にお前は名古屋城を観たいのか?との自身の問いかけに、素直に、「観たくありません」と応え却下、無かった事と、その考えを地下鉄の闇へと葬り去る。


その後、以前に知人より聞いていた、名古屋の「いい」靴屋などを回る等していると、いつの間にか時計の針も午後4時を回っていた。

傍から見れば何を収穫のない旅をしているのか、と思うかもしれないが、知らない土地の空気に触れる事が僕にとっては収穫、刺激になったので十分に満足、そろそろ帰る事とする。

でもその前に一つばかり、傍から観ても収穫と思えるような事をしようと、帰宅前に、名古屋ならではの「みそ煮込みうどん」を食する事にした。

待つのは当たり前という、老舗の店に入ったのだが、客の切れた時に丁度滑り込む事ができ、スムースに名物に舌鼓を打つ事ができた。

まるで、半煮の様な歯ごたえの麺、これでなければ、あの濃厚な汁に太刀打ちできぬのだなあと、熊本の圭花ラーメンと同じベクトルで料理が思考されている事を納得、結論を出す。
それにしても麺が硬いなあ。

午後5時、行きと同様、ひかりに乗り込み帰途に着く。
流れる町並み。

奥歯には、「名古屋」が挟まっていた。

(この後、実は驚愕の新展開が僕を襲うのだがそれは次回)


2001.3.27

発症から2週間ばかり。
未だに腰痛の僕。
おやじ臭いので今風に言い方を変えましょう、YO-2!。
ギックリ腰にしては直リが悪く、静岡に来て病院で最度検査、その結果、痛みを我慢していた為、逆側の筋もおかしくしてしまっていたことが判明。痛み止めを処方してもらい服用したらかなり楽になり、これで仕事もはかどるっていうものなのです。

春と言えば桜、等と自然の恵みに感謝し心豊かにするのは、今時はアレルギー性鼻炎のない者の特権であり、僕の場合、そのアレルギー性鼻炎に加えてこの春は上記の通り腰痛の憂き目にも遇っており、残念な相乗効果、いくら痛み止めを飲んでいても、クシャミの際に走る腰への衝撃たるや、不条理にさえ思える程なのであります。

殺し屋だ、殺し屋だ。

ライフルのごとき豪快だった僕のクシャミも腰に響かぬ様加減をし、故にそれは殺し屋の使うサイレンサー付のマグナムの様な生理現象と化しているのです。

殺し屋だ、殺し屋だ。

いやあ、病の春ですなあ。

鳥が鳴いてます。
靴も泣いてます。


2001.3.22

腰痛が長引き、知人の紹介で某接骨院へ足を運ぶ。
ここは、